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遺族に成るということ

8/8のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


ここ最近は過ごしやすい気温でしたが、今日は打って変わってめちゃくちゃ暑い日となりました。外を自転車で移動していると、肌がどんどん焼けていっているのが体感として分かってきました。週明け月曜日は外に出ないといけない用があったりしますので仕方ないのですが、辛かったです。外回りの営業の方を心から尊敬します。


八月もまだ上旬、これからも暑い日が続きそうです。皆様もどうぞご自愛くださいませ。


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遺族に成るということ ==================


昨日今日と近所のお寺さんで通夜葬儀があったそうで、近くの交差点に『●●家式場 於〇〇寺』という看板が立てられていました。このコロナ禍で葬儀が縮小されている中でしたので、この手の看板を久々に見ました。個人的には(お寺の人だということを抜きにしても)、亡くなった方ときちんと向き合うためにも、やっぱり葬儀や法事はきちんとやるべきだという考えですので、こういう看板が立てられたということはきちんとお葬儀をやられたということで、とても良いことだと思いました。


人と繋がりを持つということは、時として面倒なこともあります。村社会だった頃の日本はみんながみんなを監視するような生活だったでしょうし、それによって良い面も悪い面もあったはずです。ただそういう時に、悪い面のみを見てしまって、だからそういう付き合いを辞めようというのは違うのかなと思います。


便利や効率ばかりを求めすぎては、機械のような生活になってしまい、結局孤立してしまいます。ネットを見ればいろんな情報が手に入る現代ですが、だからといって誰かと本当につながっているかというとはなはだ疑問です。むしろ、様々な情報が入ってくることによって自分が孤独であると感じてしまうケースも少なくないはずです。私でも、他の人の楽しそうなインスタなんかを見ていると、『この人に比べて自分なんて、、、』という気持ちになってしまうこともあります。


葬儀や法事において、施主さんは確かに大変なご苦労があると思います。私も経験しましたが、肉親を亡くした悲しみの中、多くの方に連絡を取り、葬儀を執り行い、終わった後は遺品整理などに多くの時間を割かなければいけません。だから出来るだけ簡素に済ませたい、という気持ちも分かりますが、故人の方やその方とご縁があった方々のことを思えば、出来るだけ正式に執り行うのが良いはずです。


だれかが亡くなったことを受け入れるのには、どうしたって時間がかかります。何かのコラムで読んだ言葉を使わせていただきますが、故人は亡くなった瞬間に故人になるのではなく、遺族も故人が亡くなった瞬間に遺族になるわけじゃありません。故人は段々と故人に、遺族は段々と遺族に、時間や法事などを経て成っていくものです。


その変化はグラデーションです。なので、きちんと一つ一つの段を上っていくことが大切なんだと思います。私もまだ父や祖父に対しては、その階段を一つ一つ上っている途中です。10月の3回忌では、また一つその段を上ることになります。


今日もブログをお読みいただきありがとうございます。寂しい社会にはしたくないものですね。



南無阿弥陀仏

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