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正論の弱さ

こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


今日は昨日に引き続きの雨でした。午後に一度止んでいましたが、夜になるとまた降りだしてしまい、ランニングすることができませんでした。ダイエットする気満々なのに、なかなかさせてもらえない、もどかしい気持ちです。


とか言いながら、走らない言い訳が出来たと思っている自分もいます。ただそんなこと言ってられないほどブクブク来てますので、明日は絶対に走ります。最悪雨でも走ります。また、体もきちんと疲れさせてあげないと、精神も回復しない感じがしますので、そういう意味でも走りたいんです。


2/15に人間ドックですので、まずはそれに向けてのダイエットですが、それ以降も続けていきます。マイナス5kg目指して頑張ります。



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正論って弱い

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さて、今日もお経の解説シリーズはお休みしまして(さらっと言うな)、最近思う『正論の弱さ』について書いてみようと思います。実はお経にも通じる話だったりするので、ぜひご一読ください。


理数系の人にありがちかもしれませんが、私は割と物事をズバッと言うタイプです。『○』『✕』を明確にして話すやり方をするので、恥ずかしながら、お相手を怒らせることも度々です。『いや、これが正論でしょ』と強気に言うもんで、そりゃ相手も怒ります。年をとって色んな経験をしたので昔よりはマシになったかもしれませんが、それでも昔からの性格は簡単に変えられないなーと思っています。


ただ最近は、正論を盾にして相手を論破することに『得』はないんじゃないかと思ってきています。仮に明らかな正論があって相手の方が間違っていたとしても(貸した金返せ的な)、そこを真正面から突いたら逆上して怒るだけです(だから今は金ないんだよ的な)。正直言うと『正論突かれたからって逆上してんじゃねえ』という気持ちにもなりますが、そんなんで勝った気になり悦に浸ったところで、全く意味がありません。結局何も前進してなくて、怒らせた相手から貸した金を返してもらうことは更に困難になるだけです。


また、『正論』というのは時と場所と人によって変わります。大統領が代わることで国の政策が180度変わるように、戦争を知らない子供と平和を知らない子供の価値観は違って当然です。


ですので、自分が正論だと思ってたことが相手にとっては正論じゃなかったり、自分が間違っていると思っていることが相手にとっては正論だったり。そんなことがザラにあります。このとき大事なのは、相手の立場を尊重して『なんでそれが正論になるんだろう?』と理解しようとすることなのかなと思います。自分の正論を叩きつけるのは簡単で、相手の立場になることは難しいです。ただそれが前に進むための唯一の方法です。


少し『正論』とは話がズレるかもしれませんが、『相手の立場に立つ』というところで、最近自分に起きた話をします。


とあることで、〇〇士(敢えて伏せます)と専門職の方に仕事をお願いすることがありました。当然ですが、私のような素人では対応できない事なので、〇〇士に依頼した訳です。


そうして進めていく中で、私には分からないことがあったので『これってどういうことなんですか?』と聞いたところ、『それは▲▲が■■で…』と専門用語を羅列して話をしてきました。『すみません、▲▲ってなんですか?』と更に質問すると『それは✳✳が●●で…』と更に専門用語を入れて返してきました。あぁこれは埒が明かないなと思い、担当者の変更を申し入れしました。


その方は、おそらく嘘をついたりせず、正確な情報を仰っていたとは思います。向こうとしては『正しいことを言っている』という気持ちでいたはずで、何度も質問してくる無知な私に『こんなんも分からないのか』と思われていたかもしれません。


ただこちらとしては、分からないから頼んでいるのであって、正しい情報であってもこちらが理解できない説明をされては、その情報を受け取ることができません。担当者の変更は申し訳なかったですが、あのまま行っても両者ハッピーにならないので仕方のない決断だったと思います。


とは言いながらも、根本は自分もこの方のようなタイプなので、痛いほど気持ちが分かります。ただそこで『そういう言い方しても誰も得しないから止めましょうよ』と諭しても相手にとっては『専門用語を入れて説明する』が正論になっていますので、聞かないかなーと思って控えました。(身近な人なら粘り強く話したかもしれませんが)


相手の立場に立つ、というのはお釈迦様(釈尊)も実践されていたことです。


前にご説明したとおり、仏教の経典は大変な数が存在しています。現存するものだけではなく、時代の中で失われたものも入れれば数え切れません。


なぜこれだけ多くの経典があるかというと、その理由の一つに『お釈迦様が説く相手によって言い回しを変えていたから』というのがあります。これを『対機説法』と言いますが、要は仏法を伝える上で、『この人にはこういう話をした方が刺さる』というのを考えながらお話しされていたというのです。まさに相手の立場に立って話をしていて、これだけ聞いてもお釈迦様の凄さが伝わってきます。


また仏教ではよく『方便』という言葉が使われます。『嘘も方便』ということわざがありますが、方便とは本当に伝えたいのは表面通りの言葉じゃなく、その裏にある真実に導くための言葉という意味です。前にテレビでやってましたが、京都の方が東京の友人に言う『東京はコロナが大変だね』という言葉には、表向きは心配している様に見せて、その裏で実は『京都に来ないでね』というメッセージなんだそうです。


この『方便』ですが、次に解説させていただこうと思っている『観無量寿経』には特にたくさん出てきます。というか、このお経自体が方便と言っても過言じゃありません。顕密(けんみつ)と言って、表の意味と裏の意味、どちらも理解することがとても大事なお経です。


自然とできる人もいますが、私は仏教を学んだことで『相手の立場に立つ』大切さを学べたような気がします。なので前よりは、柔らかい人柄になっているはずです。


そういう観点からも、仏教を学ぶのはとても面白いです。日常生活に落とし込める教えが沢山詰まっているので、改めて多くの方に仏教について正しく知ってほしいなという気持ちになりました。


まずは明日以降に観無量寿経の解説しますので、お楽しみに。



南無阿弥陀仏

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