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公園から余白が消えた

2/6のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


まだまだ寒い日が続いています。そんな寒さと乾燥で、少し体調に不安を感じながらも、大崩れすることなくここまで来られています。要は気合い、なのかもしれません。


ニュースによると、都心でも来週また雪が降るかもしれないそうです。前みたいに積雪するかまでは分かりませんが、寒くなる事は間違いありません。ここからも引き続き、気を引き締めて生活していきましょう。


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公園から余白が消えた

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夕方頃、諸々の仕事が一段落したタイミングで息子が昼寝から起きてきました。誰に似たのか、寝起きの機嫌が悪いのですが、今日は特にひどかったです。どうしようもないということで、それまで特に息子にかまってやれなかった私が公園に連れ出すことになりました。


目の前の小学校の裏にある公園に連れて行ったのですが、息子の機嫌はすぐに良くなりました。すべり台で遊んだり、お砂場で遊んだり、シンプルに走り回ったり。私も子供の頃お世話になった公園なので、少し懐かしい気持ちになりながら付き合っていましたが、あの頃とは少し変化があります。


遊具が入れ替わっていると言うのもありますが、個人的に一番寂しかったのが、すべり台の下や、小学校との境目にある裏道的なところがきれいに封鎖されてしまっているところです。おそらく安全上や防犯上の観点から封鎖されたのでしょうが、遊具なんかよりもむしろそっちで多くの時間を費やしていた身としては、やっぱり寂しい限りです。


これはある意味、余白を削られたんだと思います。区の担当者からは『ほら、これだけ遊具があるんだから、こっちで遊びなさいよ。事足りるでしょ。』と思われているのかもしれませんが、子供がそんなんで満足できるはずがありません。自分なりに楽しいことを見つけていくのが一番楽しいわけで、そのためには余白は絶対に必要です。


こんなことを考えていたとき、ふと『ゆとり教育』について思い出しました。授業を詰め込み過ぎず、自由な時間を設けることで子供たちの発想力を伸ばしましょう的なやつだったと思います。これもある意味余白を作ったわけですが、あまり評判はよろしくなかった印象です。


この違いは何なんだろうかと考えてみましたが、私の中では『ご縁があるか無いか』という結論になりました。


前者の場合は、『あっちに何かあるらしいぜ』だったり、『かくれんぼで見つからないように、こっち入っちゃおう』だったり、そこの余白まで続く何かしらの誘いがありました。そっちに行けば行くほど、また違う道が見えてきて、『うわ、こっちに繋がってるのか』みたいな爽快感(?)も得ることができました。


一方後者は、そういった類の誘いがあまりなかった印象です。『時間は設けましたので、どうぞご自由に』みたいな感じで、こちらからすると『え、何すればいいの?』という気持ちになりました。まあそれでも、先生がガイドラインを設けてくれて、班ごとに調べ物とかした記憶がありますが、公園の裏道ほどのインパクトは残っていません。


余白があっても、そこにご縁(誘い)が無ければ、誰も足を踏み入れることなく、そのまま余白で終わってしまいます。余白を残しながら、かつ何かしらの誘いをデザインすることが大事なのかもしれません。


個人的には、こういった余白をデザインするのは得意じゃないと思います。詰め込み過ぎず、何事においても少し余白を残しながら、そこでまた新しい発見が得られるようなライフスタイルにしたいものです。


今日もブログをお読みいただきありがとうございます。余白までデザインできる人になりたいものですね。



南無阿弥陀仏

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