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道を歩む

1/20のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


昨年の11月だったか12月だったか、本山にいる後輩僧侶から連絡をいただき、本山での法話の依頼を頂きました。昨年にもやらせていただいたのですが、有難いことに2回目の機会をいただくことができました。日程は4月15日(土)の午前10時から、会場は浅草にあります東本願寺の慈光殿の(たしか)3階です。(たしか)どなたでもお越しいただけますので、お時間と興味のある方は是非お願い致します。


そして、お話をいただいてから数週間後、年末くらいに本山から正式に依頼のお手紙をいただきました。お手紙は往復ハガキになっていまして、法話の議題を書いて返信するようになっていました。お手紙をいただいたときにはずいぶん先の予定のことなので、まだ何をお話しするか全然決めていませんでした。そして年が明け、つい先日まで悩んでいたのですが、昨日返信ハガキを投函しました。ずばり議題は、『道を歩む』にさせて頂きました。


まだ議題を決めただけで内容を詰めてはいないのですが、自分の中でしっくり来ましたし、この議題について自分自身ももっと深めたいなと思ったのが決めた要因です。


よく浄土真宗(他宗さんでもあるのかもしれませんが)では、『お念仏の道を歩む』という表現をされます。『進む』でも『駆ける』でもなく、『歩む』という動詞が使われます。それが一体どういうことなのかなーという部分を、掘り下げてお話しできればなと思っています。


また、私は書道をしておりますが、ここにも『道』という字が使われています。他にも『華道』『茶道』『柔道』『剣道』など、『道』がつくものは沢山あります。そこで使われている『道』と、先述のお念仏で使わている『道』、同じ意味なのか、はたまた全然違う意味なのか、同じなら何で同じなのか、違うならどう違うのか、その辺りも掘り下げられれば良いですね。


私自身の、書道を初めて4年ほど経つ身としての感覚では、『書の道』は確かに『歩む』もので、『進む』でも『駆ける』でもありません。『進む』と言うと苦労している感じがしませんし、『駆ける』と言うと長期戦なのに保たないよ、と思ってしまいます。一歩一歩、たまには後ろ向きにも、力を込めて歩むことが、書の道なのかなという感覚です。もちろんたまには、『進む』や『駆ける』時もあったりしますが。


告知はほどほどに本題を書こうと思っていたのですが、気が付いたらたらたらと書き綴ってしまいました。こうやって書くことでアイディアが構成されていったりもしますので、まだまだ浅い段階ではありますが、少しブレスト的なブログになってしまいました。お付き合い頂き、ありがとうございます。


今日もブログをお読みいただきありがとうございます。日本語の表現って面白いなぁ。



南無阿弥陀仏

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