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書道と活字の違い

10/1のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


ついに今年も10月に入りました。9ヶ月が過ぎたという事で、1年の四分の三が過ぎたという事になります。早いもので、完全に後半戦です。


2週間後には父の一周忌、一ヶ月後には報恩講と建替え説明会と帰敬式があります。今月はその準備でバタバタとしそうですが、早め早めに動いていきます。


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書道と活字の違い ===============


さて、昨日の話になりますが、2週間ぶりに書道教室に行ってきました。私は木曜午後のクラス所属ですので、先週木曜の9/23は祝日でお休みでした。2週間空いただけで、かなり久々に感じます。


まず前半で、ついに篆書の提出をしてきました。鄧石如の『白氏草堂記』という古典の臨書ですが、とても勉強になりました。ちなみに全臨(全文を臨書すること)でしたので、89文字でした。半切を三分の一に切ったサイズの紙に4文字ずつ書いていきましたので計23枚、それに表紙と裏表紙を足して25枚という形で提出しました。


89文字というとそんなに多くないように感じるかもしれませんが(このブログは毎日1500~2000文字書いてます)、篆書でこの文字数はなかなか大変でした。『十』とかの簡単な文字ばかりなら楽ですが、『巖』とか文字数が多い文字も結構あったので、大変でした。見慣れないし書き慣れないしで、何度も書き直しました。


ただ、そのおかげか提出日には先生から一発オッケーを頂けました。研究科に入って最初の法帖提出でしたので何だか感慨深いです。次は漢字と仮名のまじりになるそうです。どんな課題なのか、不安と期待を胸にしまっておきます。


そして後半の授業では、10月の課題制作を進めていきました。私はいつも(一応得意の)楷書から書き始めるのですが、今月もそのルーティーン通り始めました。今月は李白の蜀道難という句から、『連峰去天不盈尺 枯松倒掛倚絕壁』という一節を書いていきます。


前半に『去天不』と字画の少ない文字が3つ続いているところがあります。普通に書いてしまうとそこだけ小さい文字が3つ続くことになりますので、表情を変えていく工夫が必要です。私的には、『去』は『連峰』を受けてそのまま墨継せずに書くので渇き気味に、その次の『天』では墨継をするので黒々と、『不』はそのまま自然に書くのが良いかなと思い、それで進めていきます。


また後半の『枯松』は木へん+つくりという文字が続きますし、『倒掛』は3分割出来る文字が続きます。先生からはここも表情を変えていきたいというお話があり、先生は『松』を『枩』に、『掛』を『挂』にして書いておられました。どちらも異体字に代えているわけですが、古典の知識があればこういう乗り切り方が出来るという事で、面白かったです。


先生のお言葉はいつも興味深くてとても勉強になります。昨日仰っていたことで、あともう一つだけここで共有させていただきたいのは、『部首で分かれるような文字を書かない』ということでした。言い換えれば、活字のようにキレイに部首を配置していかない、ということでした。


私たちは活字を見慣れているので、例えば『松』であれば左半分に『木』が来て、右半分に『公』が来るように書きます。また、『思』であれば上半分に『田』が来て、下半分に『心』が来るように書きます。ただ書道ではこれはあまり良くなくて、部首と部首の間にキレイに直線が入ってしまう文字は良くないと仰っていました。


活字ではなく人が書く文字なのだから、大きさも位置もバラバラであってしかるべき。また、そうやって書くことによって文字に一体感が生まれるとも仰っていました(ような気がします)。


そう言われて自分の文字を見返すと、部首と部首の間にキレイに線が入る文字ばかりです。自分としてはきれいに書いているつもりでも、それがつまらない文字にさせていたんですね。とても大きな発見だった気がします。


本当に書道は奥が深いです。やればやるほど自分が下手になっている気がするほど、どんどんと新しい課題が出て来ます。先生の半端ない作品をここに載せて皆さんにも見て頂きたい気持ちですが、さすがに人のものですので止めておきます。気になる方は是非、日本教育書道芸術院の門を叩いてみてください。



南無阿弥陀仏

 

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