自堕落な生活
6/7のブログです。
こんばんは。
法善寺住職の中山龍之介です。
衣替えついでに法衣の整理をしました。『小さい(そもそもサイズが小さい)』『直し(ほつれなどがあり直しが必要)』『クリーニング(着られるしほつれもないけど、長らく着ていないから洗いたい)』という3カテゴリーに分けていく作業だったのですが、ほとんどが『小さい』に分類され、改めて全然自分が着られる法衣が少ないことに気が付きました。
この『小さい』は祖父が着ていた法衣でして、衣裳持ちだったんだなぁということが窺い知れます。逆に父はそんなに法衣がなく、それを引き継いだ私も法衣の数が少ない、という状況です。もちろん日々の業務に支障をきたすほどではないのですが、少し何か不測が発生した時とか、普段とは違う法要の時とかになると対応が難しくなってしまいそうです。
贅沢するつもりはないのですが、先日の京都出張で築いた法衣店さんとの関係を早速活用するかもしれません。でもまぁ、そんなに余裕があるわけではないので、しばらくこのままいくんでしょうが。
==========
自堕落な生活 ==========
仕事柄、というかどんな仕事でもそうかもしれませんが、朝には『今日は平和な1日だなぁ』と思っていても、夕方には人の死に触れていたりします。
まさに白骨の御文の如く、『朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり』というところです。白骨の御文は、特に諸行無常を表した名文と言われていますが、それだけ人の死というものは、時に突然訪れるというものです。思い返せば、昨年末に亡くなった祖母も、その日の朝に体調を崩し病院に運ばれ、そのまま亡くなりました。
親族以外にも死に触れる機会が多いのが僧侶というものですが、まだまだどうにも自分事としては捉え切れていません。そもそも死を自分事として捉え切れる日なんて来ないのかもしれませんが、それにしても呑気なもんだな、と思うことがあります。
ネットサーフィンしている時、ゲームをしている時、その他にも自分の時間を無駄にしているんじゃないかと思える時がたくさんあります。あと1週間しか生きられないとして、今これをやるのが正解なのか?と自問すれば自ずと答えが出そうなものですが、それが分かっていたとしても自堕落な生活をしてしまうのが人間というものなのでしょうか。
ただ、それじゃダメだ!と立ち上がるのも人間というものなはずです。立ち上がり、立ち向かい、這いつくばって頑張りますが、それでも届かないものが出てくる。そこまで行ってようやく、宗教というものの出番なのかもしれません。
人は、自分でも他の誰かでもなく、それを全て包み込む大きな何かに縋り、繋がっていたいと思うものです。きっとそれが神様だったり仏様だったりアッラーだったりするわけですが、もがき苦しんだ先にしか辿り着けない何かがある、というのはどの宗教でも共通している部分なのかもしれません。
ただ、仮にそういった境涯にたどり着いたとしても、また自堕落な生活に舞い戻ってしまうのも人間です。結局はその繰り返しでしかないのですが、螺旋階段のように、上から同じ場所をぐるぐる回っているだけですが、横から見れば少しずつ上に登っていっているはずです。そうやって人としての深みを出し、ステージを上がっていくのかな、と思っています。
今自分はどのステージにいるのでしょうか。次はどのステージに行くべきなのでしょうか。そんなことを考えながら歩んでいければ、いつの間にか登っているはずです。
今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。そろそろ自堕落ステージは終わりにしたいものですが。
南無阿弥陀仏
-------------------------------------------------------------
コメント