根気強く、伝え続けていきたい
- Nakayama Ryunosuke
- 6月26日
- 読了時間: 3分
6/20-6/26の週ブログです。
こんばんは。
法善寺住職の中山龍之介です。

もう東京の戻ってきましたが、先日大阪の関西万博に行ってきました。事前情報としてあまり良い話は聞かなかったものの(特にメディアからは)、そう言われると逆に行きたくなるひねくれ者な私でして、はるばる足を運んでみました。
平日でしたが、混んでたし、暑いし、ジメジメしてるし、と文句を言いだせばキリがありませんが、前向きな明るい未来に向かっていくエネルギーのようなものを感じられました。総じて、行ってよかったと思っています。
ちなみに開催期間は、10月13日㈪までみたいです。いつ行っても暑いでしょうから、行く方は覚悟の上お楽しみください。
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根気強く、伝え続けていきたい
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一応一端のお坊さんとして、日本における『宗教的行為』や『慣習』や『迷信』や『気持ちから出る行動』の線引きがとても難しいなと感じることがあります。
例えば、当然ながら葬儀は『宗教的行為』ですが、その後に組み込まれるお棺へのお花入れは『気持ちから出る行動』に当たります。現在は必ずと言ってもいいほど行われているので、『慣習』と化している感もありますが。
そんなお花入れも、たまに葬儀屋さんが『お花入れの儀』と、儀式っぽい感じの名称を付けている時があります。後でこそっと『お花入れは儀式じゃないですよ』というお話をしたりしますが、僧侶じゃない人からすれば線引きが難しいのも確かです。
もっと厄介なのが『迷信』でしょうか。浄土真宗は特にそういったものを排除してしまうので、世の中の慣習ばった迷信によって、門徒の方々が混乱されている場面を目にすることがあります。ご収骨の際の相挟み、お線香を立てる、などがそれに当たるでしょうか。
そもそも浄土真宗では、亡くなることを忌み嫌うこととして捉えません。この身を離れると漸く阿弥陀様のおはからいによって、極楽浄土に往生することが出来る、と考えるからです。
また、『生きるのも日常、死んでいくのも日常』という樹木希林さんの言葉がありますが、亡くなるということもこの世界の一部です。特に現代人に多いかもしれませんが、臭いものには蓋をするという考えは良くありません。
そういったことをきちんとお伝えするのも、我々僧侶の役割です。葬儀屋さんくらいは知っといてくれよ、と思う気持ちもあったりしますが、浄土真宗の常識が他宗では非常識ということもあります。様々な宗派を取り扱われている葬儀屋さんのご苦労もお察しします。
お伝えする、という行為は単発的なものではありません。ある程度の長い時間軸を持ち、繰り返し行っていくことが重要です。私自身に言い聞かせていますが、飽きずに諦めずに続けていければと思います。
ブログをお読みいただきありがとうございます。そういえば万博のアトムは西方を指さしてました。
南無阿弥陀仏
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