死が当たり前になってはいけない
- Nakayama Ryunosuke

- 10月9日
- 読了時間: 3分
10/3-10/9の週ブログです。
こんばんは。
法善寺住職の中山龍之介です。

今週月曜のことですが、赤坂にある日枝神社に伺い、雅楽(正確には中秋管絃祭)を鑑賞させていただきました。自分1人では絶対に行かなかったであろう会に、後輩からご縁をいただきありがたい限りです。
声明と雅楽は切っても切り離せない関係ですが、私自身まだまだ雅楽は勉強不足です。隣にいる後輩に解説をしてもらいながら、とても刺激になる時間となりました。
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死が当たり前になってはいけない
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赤坂なんて滅多に行かないくせに、雅楽鑑賞の翌日も赤坂に赴き、今度は友人たちとの食事を楽しみました。高校卒業したくらいからの仲なので、なんだかんだ出会ってからもう直ぐで20年が経とうとしています。本当に、時間が経つのは何と早いことか。
なんだかんだ会うのは久しぶりだったので近況報告をしたり、太った痩せたといつも通りの会話を繰り返していましたが、数年前と比べると段々と話す内容が変わってきたことを感じました。私以外の2人は当然お寺の人ではなく社会に出てバリバリ働いているので当然かもしれませんが、自分自身がお寺世間に染まっていることを痛感しました。
それが悪いことだとも思わないのですが、変わっていく自分を簡単には受け入れられないのも事実です。一応俗世間の方々をお相手にしているはずなのに、気付かないうちにお寺の価値観に引っ張られているみたいです。
友人たちと親の終活の話になった時、まだまだ元気な親にそんな話しづらいと言う友人に対して、私からは『絶対話した方が良いよ!』と勧めたのですが、そんな私に『お前は死が近すぎる』と言われたのはなかなか衝撃でした。文章で書くと冷たいセリフに聞こえますがそんなことはなく、むしろ仲が良いから言われたセリフだと思いますが、『なるほど、、、』と返す言葉を飲み込んでしまいました。
どうしてもお寺にいると、御門徒さんと『自分が亡くなった後をどうするか』と言う話が行き交います。亡くなったらお墓を息子に継がせたいとか、継ぐ人がいないから納骨堂で永代供養してほしいとか、そういう話をよくします。
また私自身も、自分の代だけではなく息子やまだ見ぬ孫の代についても思いを馳せます。今回のお寺の建替えでも、設計事務所には『100年持つ庫裏にして欲しい』という要望を伝えています。
ただ一般的には、もう少し目の前のことに集中している方が多いのも事実です。私の友人たちも結婚して子供がいるので、『自分の人生が良ければそれで良い』とは毛頭考えていないはずですが、家族や自分の死と向き合ったりするのは違う、という感覚なのかもしれません。
住職といえど、あまりに死が当たり前になってはいけないのかもしれません。友人たちのような感覚もきちんと持ち合わせつつ、ご門徒さんに接していかねば、と思いを新たにした夜でございました。
ブログをお読みいただきありがとうございます。赤坂は色んな意味で刺激をもらえる街でした。
南無阿弥陀仏
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