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ちょっと寄り道編

みなさん、こんにちは!

法善寺副住職の中山龍之介です。

昨年の年末に、10泊11日という時間をかけてお寺巡りの旅に行ってきました!前回までは『親鸞聖人の足跡を辿る旅(パート①パート②パート③)』、そして『真宗所縁の場所を巡る旅(パート①パート②パート③)』とまとめてきました。

今回はそれ以外にも行った高野山と本能寺を、『ちょっと寄り道編』ということでまとめました。

これで旅シリーズは終了です!長くお付き合いいただきまして、ありがとうございます!そして、長くなってしまい、申し訳ございません(笑)

それでは、最後までお楽しみください!

 

●ちょっと寄り道

『高野山』(和歌山県伊都郡)

~空海修業の地・日本仏教の聖地の一つ~

①大門

②金剛峯寺

③金剛峯寺(経蔵)

④金剛峯寺(蟠龍庭)

⑤三鈷杵

⑥奥の院へ続く道

⑦奥の院前(御廟橋)

⑧生身供(お戻り)

⑨壇上伽藍(中門)

⑩壇上伽藍(金堂)

⑪壇上伽藍(西塔)

⑫壇上伽藍(根本大塔)

⑬壇上伽藍(東塔)

⑭大門南駐車場からの景色

動画①生身供のお届け

動画②奥の院からの参道

【この場所について】

 高野山は、和歌山県伊都郡高野町にある、周囲を1,000m 級の山々に囲まれた標高約800m の平坦地を指す。平安時代の弘仁7 年(816 )に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。

 現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山 写真②~④)、大本山宝寿院の他、子院が117 ヶ寺もあり、その約半数が宿坊を兼ねている。  金剛峯寺にある三又の矛は三鈷杵( さんこしょ 写真⑤) と言い、その昔空海が自身の教えを広める地を選ぶ際に天に投げ、それがこの高野山の土地に落ちたことから、空海は高野山を自身の活動の拠点としたと言われている。  奥の院( 写真⑦) では、即身仏となった弘法大師空海が未だに生きていると伝えられ、毎日朝6 時と10 時30 分に生身供( しょうじんく 写真⑧・動画①) という食事を運んでいる。

【副住職の感想】 夕方ごろ、高野山のゲストハウスに到着し、その足で恵光院というお寺からスタートする奥の院( 写真⑥・⑦) へのナイトツアーに参加しました。真言宗の僧侶は常人では持ち得ない特別な力を持つと言われ、ある意味浄土真宗とはとても離れたところにある宗派だと思います。そのためか、高野山自体も浄土真宗にはないような厳かさを感じることが出来ました。今度はもっと時間をかけて回ってみたいです。

絶景スポットが多かったですが、撮影禁止の場所ばかりでしたので、興味ある方は是非現地に行って見てみてください!

 

『本䏻寺』(京都市中京区)

~信長暗殺『本能寺の変』の舞台~

①正面

②総門

③本堂

④織田信長公廟

【この場所について】

 本能寺は、京都府京都市中京区下本能寺前町にある、法華宗本門流の大本山。「本能寺の変」の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7 院の塔頭がある。  織田信長は、土地と兵力をたくわえ大名と並ぶ力を持っていた大寺が為政者の命令に従わないこともあったため、比叡山を焼き払い、一向宗徒を征服し、奈良の大寺を撃ち、高野山に攻め入るなどの宗教弾圧を行なったとされる。  境内には、信長の自刃後、三男信孝の命によって建てられた信長公廟( 写真下段右)があるが、遺体は見つかっていないためここに遺骨があるわけではない。

【副住職の感想】 京都市内を回っているときに時間に余裕があり、近くにいたので寄ってみました。想像していたよりも街中にあるお寺で、あの有名な本能寺の変の舞台がこんな場所にあるのか、と驚きました。現在、本能寺の能の字は「 」と書きますが、これは5 度にも及ぶ火災のせいで、ヒ( 火)を嫌ったため、この字に替えられたそうです。

 →後日ご指摘いただきましたが、信長が暗殺された当時の本能寺はこの場所ではなかったそうです。本能寺の変より後の天正10年(1582)に、豊臣秀吉の都市計画により現在地へ移動したとのことです。

 

以上です!

これにて旅シリーズ、見事完結となります!(パチパチパチ・・・)

11日も一人旅するのは学生の時以来でしたが、ホームシックになりつつも楽しめたかなと思います。こんな身勝手な旅をさせてくれた家族に感謝です。

南無阿弥陀仏

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