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親鸞聖人の足跡を巡る旅 パート3

みなさん、こんにちは!

法善寺副住職の中山龍之介です。

親鸞聖人の足跡をたどる旅 パート1』『親鸞聖人の足跡をたどる旅 パート2』から引き続き、本日はパート3をお届けします!

親鸞聖人の足跡を辿るシリーズは、今回はこれで最終回となります!次回は、真宗所縁のお寺編です。

『親鸞聖人の足跡を辿る旅 パート3』は、関東への歩み始めから京都への帰洛までを追っていきます!上図ですと、善光寺から京都市の手前までをご紹介します。

それでは、ご覧ください!!

 

●親鸞聖人の足跡を辿る旅 パート3

『善光寺』(長野県長野市)

~親鸞聖人が影響を受けた民衆のお寺~

①仁王門

②仲見世

③山門(三門)

④境内

⑤本堂

⑥親鸞聖人像

⑦爪彫阿弥陀如来の祠

⑧爪彫阿弥陀如来

⑨堂照坊

⑩宿坊・淵之坊

⑪ライトアップされた仁王門

⑫ライトアップされた本堂

⑬長野駅前にある如是姫像

【この場所について】

 長野市元善町491 にある無宗派の単立寺院で、全国の善光寺信仰の中心寺院。その中心は奥行きの深い独特の形をした本堂( 写真⑤) で、現在の御堂は江戸時の宝永4 年(1707) に建立されたものである。本尊はおよそ2500 年前に造られたと言われる絶対秘仏の一光三尊様式で作られた阿弥陀三尊で、三国伝来( 印・中・日)の由来を語った「善光寺縁起」が伝えられている。その絶対秘仏を基に、およそ800 年前に造られた阿弥陀三尊には御前立仏があり、これが7 年に1 度御開帳される。  親鸞聖人がここを訪れたゆかりとして、本堂の入口近くに如来堂御花松という松一本の生け花があり、親鸞聖人がかつてこれを供えたという言い伝えから親鸞松と呼ばれている。また善光寺仁王門の近くに、親鸞聖人が100 日間逗留されたと伝えられる堂照坊( 写真⑨) という宿坊があり、戸隠山に参詣した帰りに描いたとされる「笹字の名号」が伝えられている。更に本堂前左手の祠(写真⑦)に「爪彫阿弥陀如来( 写真⑧)」というものがあり、親鸞聖人が逗留の際に爪で彫ったものと伝えられている。こうした親鸞聖人との関わりから本堂前には、松を捧げる親鸞聖人の銅像(写真⑥) が建てられている。最初の像は戦時中に供出されてしまい、現在のものは1954 年に再建されたものと言う。

【副住職の感想】 親鸞聖人が関東に向かう道中に立ち寄ったと思われる善光寺。無宗派の単立寺院ですが、親鸞聖人は善光寺から大きな影響を受けています。それはおそらく、多くの平民が慕う善光寺に、ご自身が理想としていた民衆全てを救える仏教の姿を見たのではないでしょうか。 現在善光寺は天台宗のお寺と浄土宗のお寺が護寺する形をとっていて、朝のお勤めも前半は天台宗の僧侶が、後半は浄土宗の僧侶が行うという変則的なものでした。クリスマス時期ということもあり、夜には山門や本堂が綺麗にライトアップされていて(写真⑪⑫)、多くの方が参詣に来られていました。

長野駅前には、善光寺の絶対秘仏を作成されたと言われる、天竺(インド)の毘舎離国(びしゃりこく)の如是姫の銅像が善光寺の方向に向けて建てられていました。この如是姫が阿弥陀仏のお導きによって病気が治ったとのことで、阿弥陀像を造られ、それが善光寺に伝わってきたと言われています。

 

『宝福寺』(群馬県邑楽郡)

~親鸞聖人が絶対他力に気付いた場所(?)~

①正門

②蔵

③性信房像

【この場所について】

 群馬県邑楽郡板倉町板倉にある真言宗豊山派の寺院。昭和35 年にこの寺から親鸞聖人の高弟・性信房の像( 写真③) が発見されて、以来恵信尼の書状にある浄土三部経を千部読もうとした場所は、この寺の可能性が高いと見られている。この像を調査し、延文6 年(1361) に3 度目の彩色が施されたことが知られ、性信房が没した直後に造られていることが分かる。

【副住職の感想】

親鸞聖人が、善光寺から茨城県笠間の草庵へ向かう途中に立ち寄ったと言われるお寺。現在は真言宗ですが、昔はお寺の宗派というのはあまり重視されておらず、親鸞聖人もここに留まることが出来たと思われます。また聖人は、浄土三部経を千部読もうとしたが無駄だと察し止めたことから、自力ではなく絶対他力に気付いたのも、この場所である可能性が高いと思いました。

 

『妙源寺』(愛知県岡崎市)

~親鸞聖人帰洛の道~

①正門

②柳堂(国指定重要文化財)

③本堂

【この場所について】

 愛知県岡崎市大和町字沓市場にある真宗高田派の寺院。寺伝では親鸞聖人が関東から帰京の際に、ここ三河国矢作( やはぎ) に17 日間滞在して教えを説かれたことに始まると伝えられるが、実際には上人の弟子専信房とその弟子円善によって教えが弘められたと考えられる。開基は円善の弟子念信で、15 世紀前半の様式を持つ御堂が現存している。毎年8 月7,8 日の虫干しには、「選択相伝の御影」や「善光寺如来絵伝」等、数多くの宝物が公開されている。

【副住職の感想】

「選択相伝の御影」とは、親鸞聖人の師である法然上人の絵像のことです。この絵像の中では、法然上人はひげを剃っておらず、きちんとした身なりではないそうです。是非直接拝見したかったのですが、最近このような古い資料や宝物の盗難が相次いでいるとのことで、公開する日を限定しているそうです。とても悲しいことです。

 

『錦織寺』(滋賀県野洲市)

~親鸞聖人帰洛の道~

①正門

②阿弥陀堂

③阿弥陀如来坐像

【この場所について】

 滋賀県野洲市木部にある仏教寺院で、真宗木辺派の本山。嘉禎元年(1235)、親鸞聖人が関東からの帰洛の途中、美濃国の正蓮寺で毘沙門天の霊告を受けて当寺に立ち寄り、常陸国滞在中に霞ヶ浦にて感得した一尺八寸の阿弥陀如来座像( 写真③)をこの地に安置したとされる。

【副住職の感想】

錦織寺は「きんしょくじ」と読みます。真宗十派の一つである木辺( きべ) 派の本山です。琵琶湖のすぐ近くにあるお寺で、親鸞聖人が逗留されていた時には、田植えする農民たちに、経文や讃文等に節をつけた田植え歌をもって教化されたと言われています。ご本尊は一度火災に遭ってしまったので、真っ黒になってしまっていました。

 

錦親鸞聖人の足跡を辿る まとめ

 今回の旅では、親鸞聖人がご生誕になった場所から、青蓮院でのお得度、比叡山での修業、六角堂での参篭、吉水での法然上人との出会い、流罪の地となった居多ヶ浜、聖人が大きな影響を受けた善光寺、そしてこれ以外にも多くの親鸞聖人所縁のお寺にお邪魔させていただきました。  もちろん当時は電車などはなく、主に徒歩での旅だったと思います。コンビニやホテルなどあるはずもなく、私の今回の旅とは勝手がまるで違うとは思いますが、自然の環境というのは大きな違いはなかったはずです。聖人が流罪となったのは建永2 年(1207) 2 月と言われておりますので、私が旅をした12 月と似た厳しい寒さの中、京都から北陸へ歩を進めていたと想像されます。  どのような想いで流罪の身となり越後までを歩まれていたのか、そして流罪が解けたあと、どのような思いで越後を離れ関東に向かったのか、その辺りを私自身も想像しながら同じ道を歩むことで、聖人のお気持ちが少し分かった様な気がします。

 

錦親鸞聖人の足跡を辿る編は、これで以上となります!いかがでしたでしょうか?

次回からは、真宗所縁の場所編です!引き続きお楽しみにしてください!

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