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当たり前を当たり前にやる

9/29のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


ここ数日、喉の調子があまり芳しくなかったのですが、昨日の夜に行った飲み会が最後のトリガーとなって、声が飛んで行ってしまいました。会話はできますが、高い音になると全然出てこなくて、今日の声明学園もかなり苦労しました。というか、ご迷惑をおかけしました。


実は病院にも行って『お酒はだめだよ』と言われていたのですが、元々飲み会の予定が入っていましたので『まあ大丈夫だろう』と思って飲んだのが駄目でした。やっぱり専門家の意見は聞くべきだな、と改めて教えられました。


土日には法事もありますので、今日をピークにして、明日には必ず治す所存です。薬飲んで、夜は早めに寝ます。


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当たり前を当たり前にやる ======================


先日、喉がまだ調子が良かった頃ですが、妻が子供たちを寝かしつけてくれた後に、一人でこそこそと、久々に地元の銭湯に行ってきました。銭湯自体はちょこちょこ行ったりするのですが、家族でどこか出かけた帰りに寄ったりしていたので、ゆっくりするという感じではありませんでした。ということで、これは久々にゆっくりお湯に浸かれるぞ、サウナも入っちゃうぞ、みたいなテンションで行ってまいりました。


お風呂自体の感想は置いておいて、そこで感じたことを今日は書いていこうかなと思っています。


お邪魔した銭湯は地元ではとても人気で、行った日もとても混んでいました。ただ、コロナ前は外国人観光客で賑わっていたお店ですので、そこのダメージはごっそりと受けているはずです。それでも、最近のサウナブームもあるかもしれませんが、とても人気で前を通ればいつ行っても混んでいます。そしてサウナに入りながら、『なんでこんなに人気なんだろうか』と考えていました。


昔、各家にお風呂がない時代は、銭湯は『体を洗う場所』としての役割がありました。それこそ私がまだ子供の頃なんかは、風呂桶にシャンプーやらを突っ込んで銭湯に行く人をまだ見かけた気がします。


そこから時代は流れ、今は各家にお風呂があるのは当たり前です。物件を選ぶときに、『お風呂ついてないけど銭湯があるから大丈夫っしょ』みたいな人はいないはずで、銭湯の数は年々減っていっています。ただそれでも、完全にゼロになってはいなくて、生き残っている銭湯は生き残っています。そんな銭湯は、『体を洗う場所』から『リラックスする場所』へと飛躍したんだと思います。


偉そうに言ってしまって申し訳ないですが、私が行った銭湯は、その辺りをとても良く理解されてるんだろうな、と感じました。


細かいことですが、しょっちゅうスタッフさんが見回りに来て、風呂桶やイスが出しっぱなしになっていたら、他の人の邪魔にならないようにすぐに片付けられていたり。サウナ横には水風呂があって、その近くにはイス(通称ととのいイス)がたくさん並べらていたり。また、持ってきた飲み物を保管できるクーラーボックスだって置いてあったりしています。


どれも良い意味で奇をてらっていません。客目線で考えればわかることで、お客さんが喜ぶことをしていたり、欲しいものを置いてくれています。iPhoneを作ったスティーブ・ジョブズのような天才的なアイディアはないのかもしれませんが、こういう『当たり前』を当たり前に実行することって本当に大事なんだな、と思いました。


これを自分や法善寺に置き替えたとき、当たり前を当たり前に実行出来ているのかな?と考えると、少し自信がありません。サウナに入りながら、そんな自戒をした夜でございました。


今日もブログをお読みいただきありがとうございます。しいて言えば水風呂はもう少し冷たくても良かったですが。



南無阿弥陀仏

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