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住職が亡くなりました

こんばんは。

法善寺副住職の中山龍之介です。


久しぶりのブログ更新となります。ほぼ毎日の更新を始めてからは初めて2週間空きました。


本日は前置きは短めに、早速本題に入ろうと思います。

 

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父が亡くなりました

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一部ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、かねてより入院加療中であった父が10月15日に亡くなりました。63歳でした。


亡くなってから少し日が経ちましたが、通夜・葬儀は一昨日・昨日に執り行わさせていただき、多くの方々のご協力のおかげで無事に終えることが出来ました。このような時期でしたが、『仏事にこだわる父のことなので、きちんと送ってあげたい』という私達家族のわがままで、お寺の方々・門徒さん・ご友人・町会など様々な人にご会葬いただき、父を見送っていただきました。僧侶という職業柄、実にたくさんの方々にお越しいただきました。一部、母や姉や私の友人も来てくれて、本当に嬉しかったです。御多忙の中、そしてコロナ禍の中、本当にありがとうございます。


このようなご時世ですので、こちらからの連絡を控えた方もいらっしゃいます。このブログで父の訃報に触れた方には大変申し訳ございませんが、ご理解いただけると幸いです。


今回の葬儀の準備に当たり、お寺さんや門徒さんにご協力いただく中で、改めて多くの方々によって法善寺は支えられているんだなと感じました。そしてその法善寺を、これからは私が背負っていくのかと思うと、はっきり言って重圧を感じます。改めて父がこれまでしてきたことの偉大さを理解することが出来た気がします。


当然かもしれませんが、私はこれまでの人生で、父のいない世界を知りません。正直今でもまだ完全に信じられている訳では無く、ひょっこりと現れる気がしてしまいます。今回の葬儀の準備中でも『こんな忙しいのに親父は何をしてるんだ』とイライラすることもありましたが、その時に『あ、親父は亡くなって、その葬儀の準備で忙しいのか』と、ふと我に返りました。こういった行事ごとでは父が仕切る役目でしたので、その役を私や別の人がやっていて、その時に親父が亡くなった現実を少し突き付けられます。


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父との思い出 ===========


小さい頃は、親父と2人でスキーに行ったこともありました。帰りの新幹線はなぜか自由席で、混んでいたので離れた席でした。私の周りはお酒を飲んだ人たちばかりで、あの時の酒臭いにおいをよく覚えています。また、2人で家の前でキャッチボールをしたこともありました。少年野球を始めた頃で、まだボールを持っていなかったので近所のスポーツ屋さんに買いに行きました。なぜか私は軟球ではなく硬球を買ってしまい、そのボールでキャッチボールをしました。それが初めて硬球を触った時でした。


大人になってからは、2人でお酒を飲んだこともありました。最初に飲んだ時は何がきっかけだったかは忘れましたが、近所の居酒屋のカウンターでした。飲み終わった後に『思ったより楽しかったから、また行こうよ』と私が言うと『次はお前のおごりな』と親父が言ったのを覚えています。勤めていた会社を辞めてお寺に入ってからは、ケンカもたくさんしました。職人気質のおやじのやり方に対して私の方が怒ってばかりでしたが、それでも最後には全てを受け止めてくれていた気がします。


父との思い出は数え切れません。良い思い出も悪い思い出もたくさんあります。それでも私の頭に一番残っているのは、声明に対して真摯に向き合う父の姿勢です。それ以外のことはゆるゆるだった父ですが、声明には強いこだわりを持っていました。そしてそこに関しては本当に尊敬していました。


父は7年ほど前、食道がんを患いました。幸い初期のものでしたが、場所が場所だけに発声に影響を及ぼす病気でした。まずは、とある病院で手術を受けたのですが、先生の説明や対応などに納得がいかず、セカンドオピニオンを求めました。私の姉の同級生に某有名歌手の息子がいて、その歌手の方も食道がんを患いそこから復帰した経歴をお持ちでしたので、その人の担当医を聞いてもらうように姉にお願いしていました。いつもの飄々とした父からは想像できないのですが、その時は必死でした。そして見事そのお医者さんに辿りつき、改めて手術をしてもらいました。


手術も無事に終わり退院してきた父ですが、声はガサガサで、以前のような力強い声ではなくなっていました。『あれ、親父大丈夫かな?』と思いましたが、それでも法事の時には必死に発声をしていました。親父自身、自分の声を出せないあの期間は相当に辛いものだったと思います。


ただ、それでも段々と以前のような声を取り戻していきました。努力する姿を見せるのが嫌いな父でしたので、人知れず相当な苦労をしたんだと思います。そこから約1年後の『親鸞聖人750回御遠忌』では、見事な声で復活していました。その時はまだ祖父も健在でしたので、親子三代に渡ってお勤めをすることが出来ました。良い思い出です。


こういうことを言うのは恥ずかしいですが、私は自分の声が良い声だと思っています。ただ父の前ではそれが霞んでしまいます。二人でお勤めをしても『ご住職のお声が素晴らしくて・・・』と言われることが何回もありました。悔しかったですが、横で控えめに嬉しそうな顔をする父を見るのも好きでしたし、そんな素晴らしい声の息子であることを嬉しく思っていました。


そんな父の声明に、いつかは追いつき追い越してやろうと思って頑張ってきましたが、それが叶うことなく亡くなってしまいました。逃げられた気分です。結局、面と向かって褒められたことはありませんでした。


父の法名は、私が考えて『唯聲院釋秀賢』と付けました。院号の『唯聲』は『唯一無二の聲(声)』という意味です。我ながら、父のことを上手く表せられたんじゃないかと思っています。


今は寂しくて寂しくてたまりませんが、父が遺してくれものもたくさんあります。2年半前にお寺に入ってから、二人きりで声明を習った時間は何にも代えがたい宝物です。あのタイミングでお寺に入って、東本願寺学院を卒業する姿を見せられて本当に良かったです。また、結婚して息子も見せられました。『俺の子供には親父が声明教えてよ』という約束は果たされませんでしたが、私がその役目を引き継いでいきます。


親父や祖父、そしてそれ以前のご先祖様が紡いでくれた多くのお寺さん、多くの門徒さんとのご縁を大切にしながら、これからは私が法善寺を引っ張っていきます。


祖父が亡くなってからは5年が経ちました。浄土で『おいおい、早いな』と祖父も驚いているんじゃないかと思いますが、それに対して父が『仕方ねえじゃねえか』と言っている姿が目に浮かびます。背中に父がいないのは心細いですが、浄土から祖父と一緒に見守ってくれているはずです。そう思えば頑張れる気がします。


今週末には帰敬式、週明けには報恩講、そして年末が来て、すぐに年が明けます。立ち止まってはいられません。まだまだ未熟な私ですが、頑張っていきます。


これからも法善寺をよろしくお願いします。

 

 

南無阿弥陀仏

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