真宗所縁の場所を巡る旅 パート1
みなさん、こんにちは!
法善寺副住職の中山龍之介です。
昨年の年末に、10泊11日という時間をかけてお寺巡りの旅に行ってきました!前回までは、『親鸞聖人の足跡を辿る』と称し、親鸞聖人の生涯に沿った形でお寺をご紹介してきました。
今回の旅ではそれ以外のお寺にもたくさん行きましたので、今回は『真宗所縁の場所を巡る』というテーマでまとめました!
ということで今回は、『真宗所縁の場所を巡る』パート1です!ここでは9つのお寺をご紹介します!
それでは、ご覧ください!!
●真宗所縁の場所を巡る旅 パート1
『西本願寺』(京都市下京区)
~浄土真宗東本願寺派の本山~
①御影堂門
②堀川通りを挟んで建てられた正門
③御影堂
④阿弥陀堂と渡り廊下
⑤御影堂(帰敬式)
【この場所について】
浄土真宗本願寺派の本山。現在の七条坊門堀川の地は、天正19 年(1591) に豊臣秀吉から与えられている。時の門主は11 代顕如上人で、まだ東西には分かれてはいなかったが、翌年の天正20 年(1592) 11 月24 日に顕如上人が往生すると、それがきっかけとなって本願寺が東西に分かれるようになる。すなわち、長男の教如上人がいったん秀吉から朱印状を得て本願寺門主を継職したが、翌文禄2 年(1593) 閏9月16 日に突然秀吉から大坂城に呼び出されて、結局即刻退職を命じられてしまう。その結果、3男の准如上人が12 代門主を継ぐが、教如上人は内心それを承服せず、独自に宗派作りを進めた。慶長3 年(1598) に秀吉が死ぬと、退去した教如上人が徳川家康に接近し、更に家康は関ヶ原の戦いで勝利し天下を手にすると、教如上人の作った宗派を認めて、慶長7 年(1602) 2 月六条堀川に新たに土地を与えた。この時から本願寺は事実上、東本願寺と西本願寺に分裂するのである。 現在の御影堂( 写真③) は寛永13 年(1636)、阿弥陀堂( 写真④) は宝暦10 年(1760) に再建されたもので、共に国宝に指定されている。この外に飛雲閣・対面所・白書院・黒書院・唐門・北能舞台等が国宝に指定されている。
【副住職の感想】 真宗十派の中で最大の派である本願寺派。境内から堀川通りを挟んだ場所に正門( 写真②)があるという、独特の造りでした。お朝事後の阿弥陀堂に入ると、ちょうど帰敬式( 仏弟子になる儀式・写真⑤) を執り行なっていました。西本願寺では希望者がいれば毎日行なっているそうです。法善寺でも今年から、報恩講のお勤め後に、帰敬式を執り行う予定です。台風の影響から、国宝である唐門が修復中であったり、普段入れるエリアが立ち入り禁止になっていたりしました。また改めて、ゆっくりと参詣したいと思います。
『東本願寺(真宗本廟)』(京都市下京区)
~真宗大谷派の本山~
①正門
②阿弥陀堂
③渡り廊下
④御影堂
⑤手水場
【この場所について】
前頁の通り、本願寺が東西に分派することに始まっている。本願寺がこのように東西に分派するきっかけは、本願寺が織田信長と戦った石山合戦の講和の際に、長男の教如上人がそれに承服せず、なおも4 か月間大坂本願寺に籠城したことが発端になっている。そのことが原因で、本願寺の中が教如上人派( 強硬派) と顕如上人派( 和解派) に分かれてしまい、そうした派閥の対立が東西分派へと向わせたようである。ちなみに東本願寺は通称で、正式には真宗本廟( しんしゅうほんびょう) となっている。 現在の御影堂(写真④)・阿弥陀堂(写真②) は、どちらも明治28年(1895) に完成されている。
【副住職の感想】 真宗十派の中で2 番目に大きな派である大谷派の本山。お朝事に参詣したところ、丁度年末の煤落としの日ということで、たくさんの門徒さんがいらっしゃいました( 写真③)。大谷派は、昭和44 年(1969) から始まるお東騒動により、内部分裂を起こし更にいくつかの細かい宗派に分かれていきました。法善寺も元々は大谷派の末寺でしたが、お東騒動により独立した浅草の東本願寺東京別院( 現・本山東本願寺) を本山とする真宗東本願寺派に属することとなりました。平成30 年、真宗東本願寺派は独立30周年を迎えました。
『専修寺』(三重県津市)
~真宗高田派の本山~
①山門
②如来堂
③御影堂(内観)
④御影堂(外観)
⑤寺内町を囲む堀
⑥寺内町の風景(左が専修寺)
【この場所について】
三重県津市一身田にある真宗高田派の本山。高田派は、本願寺派、大谷派に次ぐ真宗では3 番目に大きな宗派。元々は下野国芳賀郡大内庄柳島( 栃木県真岡市高田)に創られていたが、大永6年(1526) に兵火のために炎上したことがきっかけとなり、結局伊勢国一身田の現在地に本山が移された。現在では栃木県の専修寺も再興され、元の本山と意味をこめて高田本寺と呼ばれている。主な宝物は本山所蔵だが、17 年に一度御開帳される一光三尊仏の本尊や、真仏・顕智像は高田本寺に所蔵されている。 御影堂( みえいどう・写真④) は延宝7 年(1679)、如来堂( 写真②) は寛延元年(1748) に完成され、共に国宝となっている。
【副住職の感想】 お朝事に参詣するため、まだ日も昇らない内から境内を散策しました。山門( 写真①) からお堂まで、とても立派で歴史と荘厳さを感じることが出来ました。浄土真宗の宝物のおよそ8 割は高田派が所蔵していると言われているので、次は宝物を見られるタイミングで訪問したいと思います。専修寺の辺りは一身田という町で、専修寺を中心とした寺町( 写真⑥) になっています。お寺の正門とは別で手前に大きな門( 写真⑤) があり、この町全体が専修寺を中心に成り立っているんだろうな、と思いました。
『佛光寺』(京都市下京区)
~真宗佛光寺派の本山~
①山門
②御影堂(内観)
③高僧の坐像
【この場所について】
京都市高倉通仏光寺にある真宗佛光寺派の本山。始まりは元応2年(1320) に事実上の開基了源が京都山科に造立した興正寺に由来する。その後間もなく、興正寺は都の中心部に近い汁谷に移転するが、この時に寺号を興正寺から佛光寺に改称する。天正14 年(1586) になって豊臣秀吉により現地へ移転させられている。 仏光寺の現在の御影堂は明治17 年に再建されたもので、康永3 年(1344) に造られた了源の影像が安置されている。また明治37 年(1904) に再建された本堂には、平安時代末期に造られた阿弥陀如来像と、元応2年(1320) に了源が仏師湛幸に造らせた聖徳太子像がまつられている。
【副住職の感想】 真宗十派の一つ、佛光寺派の本山。京都市街の中に馴染んでおり、街と共に歴史の古さを感じることが出来ました。
『興正寺』(京都市下京区)
~真宗興正派の本山~
①正門
②御影堂
③本堂(内観)
【この場所について】
興正寺は親鸞聖人を開祖とする真宗興正派の本山。寺号は、日本に仏教をひろめた聖徳太子の事績にちなみ、「正しい法を興し栄えさす」との意味が込められている。 創建は鎌倉時代にさかのぼり、当初は京都の山科に建立された。数年を経て、山科から京都東山の渋谷へと移ったが、その際ご本尊が光を放ったことから、後醍醐天皇より佛光寺の寺号を賜り名を改めた。 室町時代、蓮教上人が佛光寺を弟に譲り、再び山科の地に多くの門徒と共に興正寺を興す。その後は本願寺と歩調を合わせ、桃山時代に現在の地へ移転した。
【副住職の感想】 真宗十派の一つである興正派の本山。西本願寺に隣接した立地で、外から見ただけでは、一つの大きなお寺と勘違いするほどでした。
『豪摂寺』(福井県越前市)
~真宗出雲路派の本山~
①正門
②阿弥陀堂(左)と御影堂(右)
③御影堂(内観)
【この場所について】
毫摂寺( ごうしょうじ) は、福井県越前市にある浄土真宗の寺院で真宗出雲路派の本山。 天福元年(1233)、親鸞聖人が山城国愛宕郡出雲路( 現京都市左京区) に草庵をつくり、長男である2 代目善鸞上人に附与されたのが始まりとされる。 天正2 年(1574)、越前一向一揆の兵火にあい、さらに證誠寺との争いが起き、善秀(第11 世)は失意のうちに没した。嗣子として柳原家より迎えられていた善照(第12 世)は教線の拡大につとめ、慶長元年(1596) に寺基を現在地に移して再興した。 明治5 年(1872)、教部省設置にかかる指令により浄土真宗本願寺派と合同したが、明治11 年(1878)、同省廃止をうけ独立して一派を成した。
【副住職の感想】 真宗十派の一つである出雲路派の本山。誠照寺などと同じく福井県内なので、車ですぐ回る事が出来ました。昔は證誠寺と本末関係( 豪摂寺が末寺) にあったそうです。
『専照寺』(福井県福井市)
~真宗三門徒派の本山~
①正門
②阿弥陀堂
③御影堂(内観)
【この場所について】
真宗三門徒派の本山。今より約700 年前の正応3 年(1290)、宗祖・親鸞聖人の法脈を継承する開基・如導上人が仏法興隆のため、現在の福井市大町の地に一宇を建立、寺号を専照寺と称したところからはじまる。 現在地に移ったのは享保9 年(1724)。しかし、天保8 年(1837) には大火により本堂、御影堂をはじめ全ての建物が全焼した。その後復興を果たしたが、堂塔伽藍は、昭和23 年の福井大震災で御影堂を残し御本堂、その他、全て倒壊した。現在宗門の一丸となっての努力により再建されつつある。
【副住職の感想】 この専照寺を含め、福井県には真宗十派の内、4 派の本山がありました。北陸は真宗門徒が多いという話は聞いたことがありましたが、それを実感いたしました。
『法隆寺』(奈良県生駒郡)
~聖徳太子が建立したお寺・日本の世界遺産第一号~
①世界遺産を記念した石碑
②南大門
③五重塔
④金堂
⑤東大門から四脚門までの境内
⑥中門
【この場所について】
聖徳宗の総本山。1993 年世界最古の木造建築として日本の世界遺産第1号に選ばれている。聖徳太子が建立した寺だと伝えられ、親鸞聖人もここの聖徳太子を信仰していて、正像末和讃の「皇太子聖徳奉賛( 十一首和讃)」を始めとして、多くの和讃を作っている。 西院金堂の国宝釈迦三尊像は、光背に刻まれた由来記によると、法興31 年(621)に亡くなった太子の母、それと翌年に病気となり間もなく亡くなってしまった聖徳太子とその妻に願を掛け作られ、この釈迦像と脇侍の2 菩薩像となった。つまり釈迦像は、聖徳太子の姿を、この世に留めようとしたものであろう。また、東院夢殿の国宝・救世観音像は、聖徳太子在世中にその姿を写した御影( 肖像) だと伝えられている。おそらく、『法華経』の観音像として、太子を描き出した像であろう。 国宝にも指定されている五重塔( 写真③) は高さ約32.5 メートルで、日本最古の五重塔として知られる。
【副住職の感想】 中学の修学旅行ぶりの法隆寺。聖徳太子が建てたといわれるお寺で、親鸞聖人も慕っていたのでないかと思います。法隆寺という駅があるので、そこから近いかと思っていたら、実は1.5km も離れていたため、20 分ほど歩いて向かいました。寺門をくぐってから中がとても広かったですが(写真⑤)、歩いてすべてのエリアを見学することが出来ました。帰りも駅まで歩いたので、法隆寺訪問だけで5km 以上は歩いたと思います。
『叡福寺』(大阪府南河内郡)
~聖徳太子のお墓~
①正面の石碑
②見真大師堂
③弘法大師像
④磯長の御廟(聖徳太子のお墓)
⑤金堂
⑥境内
【この場所について】
大阪府南河内郡太子町太子にある真言宗系単立寺院。金堂裏に聖徳太子、母(穴穂部間人皇女)、妻(膳大郎女)を祀ったという横穴式古墳( 円墳) があり、叡福寺北古墳( 磯長( しなが) の御廟・写真④) と称されている。平安時代中期の太子信仰の中で、御廟から聖徳太子のものとされる廟窟偈( びょうくつげ) が発見されたことがよく知られている。 境内には親鸞聖人の名を冠した見真大師堂( 写真②) や、空海上人の弘法大師像(写真③)などがあり、様々な日本仏教の宗祖により聖徳太子が慕われていたのがわかる。
【副住職の感想】 町名が太子町となっている通り、この地域には聖徳太子の存在が根ざしていました。親鸞聖人は聖徳太子のことを倭国の教主( 日本に生まれ降りたお釈迦様) と慕っていることから、浄土真宗のお寺にとっても所縁の深い場所です。境内はとても広く、一番奥に聖徳太子のお墓「磯長の御廟」がありました。昨今では、聖徳太子は実は存在しなかったという説も出ているみたいで、ここに本当に遺骨があるのか、様々な想像を膨らませながらお参りさせていただきました。
以上です!
全国的に有名な法隆寺や叡福寺は、さすがの見応えでした!また季節を変えて行ってみたいです。
パート2もお楽しみに!!
南無阿弥陀仏
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