諸行無常から見る縁起
こんばんは。
法善寺副住職の中山龍之介です。
私は現在、本願寺学院というお坊さん養成学校のようなところに通っています。たまにはそこで受けている授業のことを書こうかと思います。
本日水曜日は仏教学の授業です。浄土真宗うんぬんよりも手前の、仏教全体につながる歴史や考え方について勉強しています。
そこで最近は三法印(または四法印)について講義が進んでいます。四法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦のことです。みなさんも聞いたことあるフレーズが少しはあるのではないでしょうか?
本日は諸行無常の話がメインでした。いかなることも常では無い、というのが諸行無常ですが、それは何故か。ずばり縁起という道理が働くからです。仏教で言う縁起とは、外からの影響という意味でしょうか。物事はどれもそれだけで独立して成り立っているものはありません。私達の体が食べたものから出来上がっているように、物事は縁起をいただいて成り立っています。またその縁起は一瞬一瞬で変わっていきます。
例えば豆を机の上に置いておくとします。そこから豆は時間が経つごとに腐っていきます。しかし腐る前に納豆菌をかければ、その前は納豆に変化していきます。そのままであれば納豆になるところですが、今度はその空間の温度が低くなれば納豆にはなりきらず、ただの豆のままです。
例えがわかりやすいかは置いておいて笑、このように物事は無常で、さらに様々な縁起(納豆菌や温度)を受けることで変化していきます。
つまりは、私達は全員縁起によって成り立っています。何の縁起も受けず、一人で居続けている人など皆無です。
最近は悲惨なニュースをよく目にします。容疑者について取り上げられたニュースを見て、信じられない、なんでこんな事するんだ、自分とは全く違う思考の人だ、と感じることも多いと思います。確かにそのような人と同類だと感じるのも危ないですが、その方々も様々な縁起によってその人の人格が出来上がっています。もし自分がその人と同じ縁起を頂いていたら、もしくはあなた自身がその人に対する縁起となっていなかったか、逆に縁起を与える事はできなかったのか、そう考えるとどんなニュースも他人事ではなくなると思います。
もちろん、縁起を頂いてもそれを良く取るのか悪く取るのかはその人次第です。ただ、悲惨なニュースの容疑者であっても、あなたからそこまで遠くない人であることは間違いありません。
昔聞いた話では、友人知人を6人辿れば地球上のどんな人にも辿り着けるそうです。そんな狭い世界ですから、自らが良い御縁となれるように気を引き締めて生きていかないといけないな、そう思った本日の授業でございました。
南無阿弥陀仏