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親鸞聖人の足跡を巡る旅を振り返る⑤

こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


今日はお寺の建て替えに向けて、設計事務所さんとの打ち合わせでした。話すことは山ほどあるためいつも長丁場になりますが、今日は過去最高の長さでした。途中でみんなでお昼休憩を挟むほどでしたが、やっぱり未来の話はとても楽しいです。


設計事務所さんから様々な案を頂いたり、こちらから要望を出したり、あーだこーだやっております。まだまだ何かをご報告できるような段階ではありませんが、とりあえず進んではいます。


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親鸞聖人の足跡を巡る旅を振り返る⑤

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さてさてさて、引き続き、2年前の年末に行った『親鸞聖人の足跡を辿る旅』を改めて振り返っていきます。


毎回書いていますが念のため、、、


今回のシリーズはあくまで『振り返り』ですので、いま旅に出ているわけではありません。私は東京にいます。また、実際に私が訪れた順番ではなくて、まとめるために関連性から順番を決めています。ご容赦ください。ちなみに写真は、全て私が(多分)撮影したものです。

親鸞聖人が歩んだとされるルートを図式化したものがこちらです。(ざっくりとなってしまい恐縮ですが)京都でお生まれになり、流罪で越後に流され、関東に向かい、そして京都に戻られて御遷化、というのが親鸞聖人の歩まれた道です。今日はここから、親鸞聖人が流罪の地から関東の地へ向かう道中をご紹介いたします。


行くづらよ



『居多ヶ浜』(新潟県上越市)

~親鸞聖人流罪の地~

↑真宗大谷派第二十五代門首・釋浄如の石碑と日本海

見真堂

親鸞聖人上陸の地を示す看板


新潟県上越市五智6-3-4 にある、居多ヶ浜(こたがはま)とその地に親鸞聖人が上陸したことを記念するお堂(見真堂)です。昭和42 年(1967)近くの林正寺(上越市住吉町1-1)住職・古海香雲氏が建立したdそうです。近くには越後の七不思議の一つ片葉の葦が生育していました。なお居多ヶ浜上陸は、江戸時代中期の『遺徳法輪集』『大谷遺跡録』に古老の言い伝えとして著されています。


実際にその地に立つと、日本海が目の前ということもあり、『寄りかかれるんじゃないか?』と思うほど風が強く、とても冷たかったです。当時、流罪は遠流(おんる)と呼ばれ死罪に次ぐ重い刑罰だったそうです。この風を感じると、このような厳しい土地に送られることが罰だったことが納得できる気がします。(近隣にお住いの方々には申し訳ございませんが。。。)



『五智国分寺』(新潟県上越市)

~親鸞聖人流罪の地~

↑親鸞堂

↑親鸞聖人御木像

↑五智如来

↑鏡ヶ池


上越市五智3-20-21 にある天台宗寺院で、かつての越後国国分寺です。本堂は平成9年(1997) の再建だそうです。


元禄6年(1693) に記された『聖人御伝鈔改補照蒙記』に、国府に入った聖人が1 ~ 2年間住んでいた竹ノ内草庵のことが記されているところから、五智国分寺の境内に竹ノ内草庵跡という石碑が建てられました。境内にある親鸞堂には、近くの鏡ケ池を水鏡として御自分の姿を描いたと伝えられる親鸞聖人の御木像があります。近年、津田徹英氏(東京文化財研究所)は、この像を中世以前まで遡る古いものと見ているそうです。


親鸞聖人が流罪の後、初めて長期滞在したのがこの竹ノ内草庵とされています。ご住職自らにご案内していただき、親鸞堂を開けていただき親鸞聖人木像も拝見することが出来ました。また本堂には、大日如来の五つの智慧を表す五智如来が安置されていました。住職がなんと、我らが(?)上野出身ということで、話が盛り上がりました。



『野積の山寺 西生寺・地蔵院』(新潟県長岡市)

~親鸞聖人流罪の地~

西生寺正門

地蔵院正門

↑腰掛け石


新潟県長岡市寺泊野積(のづみ)にある寺院です。西生寺(さいしょうじ)は親鸞の息子である信蓮房が不断念仏という行をおこなったとされるお寺で、親鸞聖人もお立ち寄りになったとされています。すぐ隣にある地蔵院には、その時親鸞聖人が腰掛けたと言われる腰掛け石が、松の木の下に今でも残っています。ここに腰掛けながら、親鸞聖人も日本海を望んでいたのでしょうか。私も親鸞聖人と同じ海を見て、その時のご心境がご自身が後に書くことになる和讃に影響を与えたのか、と感慨深くなりました。


この2ヶ寺だけは今までのルートから少し離れたところにありましたので、直江津からレンタカーを使って、日本海のすぐ横を走る事1時間半ほどで着きました。途中、新鮮な魚介類が食べられそうな良い感じの市場がありましたが、時間が無いためスルーしました。悔やまれます。



『藤ノ木御旧跡』(長野県飯山市)

~親鸞聖人関東への歩み~

↑小堂外観

↑小堂内観(締め切られていたため、隙間から手を伸ばして撮影)

ご旧跡からの眺め

↑斑尾高原


長野県飯山市大字旭藤ノ木にある御旧跡地で、親鸞聖人の流罪が解かれた後に関東へ向う際に逗留したという伝承が伝わっている場所です。現地には小堂があり、『親鸞聖人・蓮如上人御旧跡』と刻まれた顕彰碑が立っていました。小堂の中には、親鸞聖人直筆と言い伝えられる中幅の十字名号と、旧跡の由来を記した由緒書等が納められています。


山々に囲まれ、すぐ近くには斑尾高原も広がっています。私が伺ったのは12月、親鸞聖人が越後から関東に向かわれたのが2月ですので、その当時も写真のような風景が広がっていたのではないでしょうか。


親鸞聖人は、最初に滞在した上越にも多くの門徒がいたと思われますが、ご自身の考えをまとめ、それを著する場所を探す中で、寒さや雪の厳しい上越ではなく、より気候の良い南の方(関東)に足を進められたのではないかと感じました。



今日はこの辺で。写真を見返すだけで、北陸の寒さが脳裏によみがえりました。昔の人は暖房もなくあの環境で生きていたなんて、信じられません。エアコンの開発者に感謝でございます。


明日からは、関東に向かう道中から帰洛(京都へ帰られる)の途中に立ち寄った場所を巡っていきます。引き続きご注目ください。



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