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実は称えるだけじゃ救われないんです

こんばんは。

法善寺副住職の中山龍之介です。

 

2週間ぶりのバスケに行き、東洋大学の授業を受けていたらすっかり遅くなってしまいました。いつもなら寝ている時間ですが、もう一度気合を入れ直してブログを書きます。

 

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東洋大学の授業

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冒頭でも触れましたが、現在私は東洋大学で『日本仏教史』の授業を受けています。とは言ってもこのようなご時世ですので、全編オンライン授業です。PDFと音声が東洋大学のHPにアップされて、それを読んだり見たり聞いたりしながら授業を受けるスタイルです。ちなみに毎週小テストとレポートの提出が義務付けられています。

 

本来であれば金曜午前の授業なのですが、オンラインという事で火曜日中に小テストやレポートを提出するようになっています。時間に融通が利いて有難いのですが、普段の仕事もあるのでついつい後回しになってしまいます。最悪の場合、提出し忘れることも何回かありました。自分で決めて履修しているくせに、ダメなヤツです。一応資料は全部ダウンロードできているので、落ち着いたら復習しようと思います。

 

授業内容ですが、先週ついに法然上人に入り、そして今週は親鸞聖人と一遍さん(時宗)の範囲に入ってきました。ご存知の通り、法然上人は親鸞聖人の師匠で浄土宗の開祖です。つまりは先週から、浄土宗がどのように確立され、そしてその教えがどのように派生していったか、というお話です。

 

法然上人以前にも、阿弥陀仏による済度や称名念仏(南無阿弥陀仏と口に称えるお念仏)について説かれていることもありましたが、その他の行による済度に目が向けられていて、主役ではありませんでした。

 

しかし法然上人は、誰でも救ってくださる阿弥陀仏、そして誰でも出来る行である称名念仏にきちんとスポットライトを当て、宗派として確立をされました。ここに辿り着くまでには様々な経典や論書をお読みになったと思いますし、多くの時間と労力をかけられたことは間違いありません。我々はその結果だけを頂いているわけですので、改めて深く深く感謝しなければいけないなと思います。

 

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称えるだけじゃ救われない

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称名念仏による済度は易行と言われますが、それでもいくつか条件があると今回の授業でも触れていました。それは(今回の授業の言葉を借りれば)、①末法の認識、②凡夫の自覚と阿弥陀仏への信仰の重視、③阿弥陀仏の救済の平等性に対する確信、という3つだそうです。

 

①末法の認識、とありますが『末法思想』を理解しなければいけません。『末法思想』というのは、私たちが生きている現代は釈尊が入滅してから長い時間が経っており、もう現世で悟りを得るものはいなく、正しい行を修すことも出来ない、あるのは仏法だけ、という思想のことです。この思想に基づけば、阿弥陀仏の称名念仏しか救う手立てはないのだ、ということになります。

 

凡夫の自覚と阿弥陀仏への信仰の重視とは、私たちは厳しい修行に耐えることは出来ないし、どうしたって煩悩を断つことが出来ない凡夫なんだ、という自覚と、そんな私たちだから阿弥陀仏の救済を信じるしかないんだ、ということです。

 

そして③阿弥陀仏の救済の平等性に対する確信とは、阿弥陀仏は誰でも救ってくださるんだ、ということです(#急にざっくり)。これ故に、阿弥陀仏は不可思議光如来(誰にでも降り注ぐ不可思議な光の仏様)と呼ばれます。

 

今回の授業で、改めてこの条件に付いてもきちんと法話なんかで触れないといけないな、と思いました。やっぱり『南無阿弥陀仏って言えば救われるんですよ』というのはキャッチ―で良いですが、その裏と言いますかベースにあるものもきちんと説かないとダメですね。反省です。

 

ちなみに浄土真宗では、特に『信心』について強く説かれます。南無阿弥陀仏と称えても、そこに信心が備わっていなければ意味がない、そしてその信心というのは阿弥陀仏によって回し向けられるものなのだ、という考え方をします。他力廻向というやつです。

 

とまあ、こんな感じですが、あまり難しい話になってしまうのも好ましくありませんので、伝え方を考えながら法話を組み立てようと思います。これから私の法話を聞かれる方、(ハードルを下げて)楽しみにお聞きください。

 

 

南無阿弥陀仏

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