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胡散臭さ


こんにちは。

法善寺副住職の中山龍之介です。


二日続いての早い時間での更新です。こうすることで夜が少し楽になるのですが、その日あったことを書くことが出来ないので、ネタを絞り出さないといけません。何もかも上手くいくことなんて、現世には無いんですね笑


さて、今日はタイトル通り、胡散臭さについて書いてみようと思います。


みなさんの周りにも必ずいる、胡散臭い人。前職の時にも取引先でそういう人はいましたし、お寺に入るとより多くのそういう人に出会います笑 では、何で人は誰かに胡散臭さを感じてしまうのか、何が人を胡散臭くしているのか、それらを考えてみようと思います。


まず語源を調べると『胡散の語源は、疑わしいを意味する漢語「胡乱(うろん)」からとする説。茶碗の一種で、黒の釉(うわぐすり)をかけた天目茶碗の「烏盞(うさん)」からとする説があり、この二説のいずれかと思われる』と出てきました。


ふむふむ・・・これだけでは、私の疑問は解決できません笑



では、周りの胡散臭い人の特徴を挙げてみます。


①職業不詳

  →ある仕事をしていても、それだけで食べていっているようには見えない。


②口が達者

  →頭の回転は比較的良くて、次から次へと話が飛躍していきます。


③色んなことやってる

  →①に通じるかもしれませんが、肩書がいっぱいある人。


④SNSでの存在感が大きい

  →投稿に対する反響が大きい。


胡散臭さの原因を言語化するのが難しいですが、このようなところでしょうか。特に①と③が胡散臭さの大部分を演出しているような気がします。(列挙していると、私のひがみのようにもなってきました笑)


お坊さんでも、様々なことをされている人がいます。それはそれで全然いいと思いますし、そういう人が全員胡散臭いとも思いません。ただ、何か一つ『芯』が無いとダメかなぁとは思います。例えばあの人は・・・と、ここで例を挙げたら叩かれてしまいますので自重します。


私も、色んなことをお寺でしていて段々と胡散臭くなってきている気もします笑。ただ一応私は、『お寺の門信徒に、お寺や仏教に親しみを持ってもらう』ということを芯に考えているつもりです。これをお寺のコンセプトとして、ここからは外れないように行事や企画をしています。知り合いの方で、新しい企画などで色々なアドバイスをいただくことがあるのですが、有難いことなんですがこういう基準で『やる』『やらない』を選定しています(もちろん工数上の理由もありますが)


確かにお寺は今後、今までお寺がやってきたことだけ(年回忌の法事・ご葬儀)では生活することが厳しくなっていくことが予想されます。少子化、核家族化による絆の希薄化など、プラス要素を見つけるのが難しいくらいの状況です。しかしだからといって、安易に他のことをするのも考え物です。お寺本来の役割を見つめ直すと、意外とまだまだやるべきことはたくさんあります。


というか、そもそも、今お寺が厳しい状況にあるのも、ここ数十年、仏教界が胡坐をかいてきた結果だと思っています。一つ一つのお寺が、それぞれの門信徒の方々ときちんとコミュニケーションを取って、仏教について弘め、お寺との絆を密にしておけば、こんなことになっていないと思います。ずーっと昔から私たちの御先祖様が築いてきた信頼という貯金を使い込んできた数十年です。結果、今そのツケを支払わされているだけです。

話がずれました笑


色々書きましたが、私が定義する胡散臭い人は『芯が無くて色んなことやってる人』、これで間違いなし。故に、色々やっていても、それらがその人の芯に沿っていれば胡散臭くありません。私もそっち側になれるよう、芯を強く持って頑張っていこうと思います!



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