仏教の宇宙観、地動説の捉え方、実在と観念
10/2 - 10/8の週ブログです。
こんばんは。
法善寺住職の中山龍之介です。
長らくお待たせしておりましたが、今週から漸く法善寺の庫裏客殿の新築工事が始まりました。まだまだ先は長いですが、一旦前に進めたことに安堵しています。

今週から来週にかけては、基礎となる杭を打っています。地面深くまで挿すためタイミングによっては揺れたりうるさかったりしますが、ここまでのことを思うとそれすらも喜びに昇華されています。
しばらく騒がしくなりますが、出来上がっていく光景は一期一会です。暖かく見守っていただけるとありがたいので、どうぞよろしくお願いします。
============================================
仏教の宇宙観、地動説の捉え方、実在と観念
============================================
今週は『忘れられた仏教天文学』という本を読んだ。様々な本を読む中で、『仏教において地動説はどうやって受け入れられたんだろうか』という疑問が湧き、それに答えてくれることを期待してこの一冊を選んだ。
ただ残念ながら、私の疑問にそのまま答えてくれる本ではなかった。18世紀から19世紀にかけて、仏教の伝統的な宇宙観を証明しようとする梵暦運動という活動を率いた、普門円通という僧侶の話がメインで進んでいったからだ。
梵暦運動は、仏教の宇宙観が実在的にも正しいということを証明するための運動である。世界の中心には須弥山というとんでもなく大きな山があり、南に閻浮提洲があって、というのが梵暦運動が説いた宇宙観だ。

その宇宙観に則して、地球儀ならぬ須弥山儀(しゅみせんぎ)というものが作られたりもした(写真はセイコーミュージアム蔵のもの)。地動説、地球説に対抗しつつ、仏教の宇宙観を実感としての世界に落とし込んだものである。
この本は内容的に学術的な書き方が多く、正直あまり読みやすいものではなかったが、それでも面白い箇所はいくつかあった。
特に印象深かったのは、地動説が世間一般に認められるようになったことで、仏教の宇宙観が『実在』ではなく『観念』として説かれるようになったということだ。仏教が説く宇宙というのは方便である、ということだ。
ここで勘違いしてほしくないのが、方便は嘘ではないということだ。嘘も方便という言葉があり混同しやすいが、方便とは聞き手を正しい方向に導くものである。
特に浄土真宗において言えば、日本に地動説が広まったタイミングで登場したのが清沢満之(きよざわまんし)だ。師の登場で真宗が観念的になったという話も耳にするが、時代の背景や流れも大いに影響していたようだ。
先日読了した『親鸞のコスモロジー』という本に、極楽浄土はどこにあるのかという話があったが、西方という方角を示すのではなく観念的に浄土を捉えていたのも、こういった流れの一環だと解くことが出来る。
『忘れられた仏教天文学』の中に、私の大きな疑問であった、日本において地動説に対してキリスト教ほどの大きな反発が無かった理由については、あまり描かれていなかった。ただ文面から推察するに、日本人固有の『容認する姿勢』があったように見受けられ、ここも面白いポイントだった。
今回の本を通して、改めて仏教の柔軟さに感銘を受けた。四法印に説かれる諸行無常や諸法無我といった考え方があったからこそ、地動説を受け入れつつも仏教の観念化も受け入れていったのではないだろうか。
欲しい答えがキレイに描かれていなかったからこそ、様々な思慮をしながら読むことが出来たと言えるかもしれない。良い経験となった。
ブログをお読みいただき、ありがとうございます。来週は『日本の仏教とイスラーム』を読んでみよう。出来れば二冊、いや三冊読みたい。
南無阿弥陀仏
-------------------------------------------------------------
























コメント