12月の声明の会
12/15のブログです。
こんばんは。
法善寺住職の中山龍之介です。
昨日のブログのタイトルを『余白をどう取るべきか』にしてましたが、改めて見ると概念的な話をしそうなタイトルだなぁと反省しました。そんな話は全くせずに、書道における、物理的な余白の話をしてしまいました。
ただまぁ、人生にも余白は必要です。やるべきことで溢れた日々は忙しなく、なんだか豊かじゃない気がします。余白だらけになったら嫌ですが、まぁそれも塩梅なんでしょう。極論が多い現代において、何事でも良い塩梅を見つけていきたいものです。
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12月の声明の会
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さて、今日は第3日曜日ということで声明の会がありました。12月ですので年内最後、年明けは2月が最初となります。1月は新年会がありますので、声明の会はお休みです。
前半はみんなで声を出して、後半は歎異抄の解説という、いつもの構成です。歎異抄は今日で第4章まで終わりました。阿満利麿さんの書かれた歎異抄の解説本を片手に、読み進めております。
歎異抄は浄土真宗の教えを理解するうえでは分かりやすいと思いますが、同時に曲解される恐れもあるなというのを強く感じます。昔とある方に浄土真宗の教えを理解する上で歎異抄から入らない方がいいと言われましたが、その理由がわかる気がします。
とはいえ、阿満利麿さんの解説があれば、そういった曲解もなく理解ができるかなと思います。浄土真宗の教えの極みは、念仏を称えれば仏になれる、という大変シンプルなものですが、そこだけ切り取ってしまうとやっぱり誤解するのでしょう。
人間というのは、自分にとって都合の良い情報だけを取り入れたがるものです。交番に書いてある交通事故の死亡者数を見ても他人ごとに思いますが、宝くじは買ったら当たるんじゃないかと思ってしまいます。確率で言えば、全然事故でなくなる方が高いにも関わらず。
ですので、浄土真宗の教えをちゃんと理解する意味でも上辺だけではなく、その水面下にどういった教えがあるのかということを理解するのが大事かなと思います。
また、そこを理解することで、より日々の生活が豊かになるものだとも思います。それこそが、真宗門徒における現世利益なのではないでしょうか。
是非、もっと多くの方に声明の会にいらしていただき、仏教を学んでほしいと思います。より豊かな日々を目指していきましょう。
今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。次回は2月16日です。お待ちしております。
南無阿弥陀仏
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