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苦しみにも感謝できる心

  • 執筆者の写真: Nakayama Ryunosuke
    Nakayama Ryunosuke
  • 2023年6月13日
  • 読了時間: 3分

6/13のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


今日、アメリカNBAのファイナルが終わりました。デンバーナゲッツがチーム史上初めての優勝ということで、おめでとうございます。正直言うとあまり応援はしてなかったのですが、最初から最後まで圧巻の強さで、『こうしておけば勝てたのに』というたらればの余地が無い優勝だったと思います。


それに触発されて、と言うわけでもありませんが、たまたま条件が合ったので久々にバスケに行ってきました。およそ半年ぶりくらいで、開始10分くらいで足がプルプルしてきましたが、やっぱりバスケは楽しいなぁと再確認出来ました。明日以降の筋肉痛が怖いですが、またやりたいです。


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苦しみにも感謝できる心

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生きていれば楽しいことも嫌なことも沢山あります。時には苦しすぎることもありますが、そういった苦しみがなければ楽しみも味わえなかったりするわけで、結局人は相対性の中で生きているんだなぁと痛感する毎日です。


美味しいと思っていたものも、さらに美味しいものを知れば不味くなるし、高いと思っていた服も、それ以上に高いものを知れば安く感じるものです。そして、相対性の中でしか物事を評価できないからこそ、人の欲は底なしなのかも知れません。


実は宗教も、こういった相対性の中で説かれていたりします。お経の中には、提婆達多(だいばだった)という悪役が登場します。キリスト教で言えばユバという裏切り者がいたりしますが、そういった対比によって自らの法を際立たせている、という側面もあるはずです。浄土真宗で言えば、善鸞がそうかもしれません。親鸞聖人の実の息子でありながら、間違った教えを広めたせいで、聖人から絶縁されています。


宗教というのは本来であれば絶対的な存在や教えを説いているはずですが、それを伝える上では相対的な話を方便として使っているわけですね。これが正しい、だけでは伝わりにくく、あれが間違っている、とまで言うことが大切なんでしょう。そしてその対比があるからこそ、聞き手としては『あぁそういうことか』と理解できます。


そう考えると、世の中に悪人がいるのも必然です。仮に、今の我々が思う悪人が全員いなくなったとしても、今の我々が思う善人の中から新しい価値観の悪人が出てくるだけなんじゃ無いでしょうか。


苦しみがあるからこそ楽しみがあり、不味いがあるから美味いがあります。大変な仕事終わりのビールが美味しい、というのはきっとそういうことです。そう考えれば、苦しみにも不味いにも感謝の気持ちを抱ける気がします。


とまぁ書いたものの、苦しみに感謝できる気持ちをまだ持ち合わせていないのが私でございます。いつかその境涯に辿り着きたいなぁとは思いつつ、精進する毎日でございます。


今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。のうのうと生きたくはないなぁ。



南無阿弥陀仏

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