煩悩まみれに気が付けるか
8/25のブログです。
こんばんは。
法善寺住職の中山龍之介です。
8月の終わりまで1週間を切りましたが、暑さの終わりが見えない日が続いています。子供の送り迎えですっかり焼けてしまいましたし、ファッションとかではなく実用性でサングラスを掛けながら、日々ママチャリを漕いでいます。
送り迎えと言えば、2歳半を過ぎた娘が絶賛イヤイヤ期に突入しています。保育園に送る時が特にひどく、毎朝涙と鼻水を流しながらお別れをしています。迎えに行ったら楽しそうにしているので保育園が嫌いというわけではないんでしょうが、何をしてもイヤイヤ言う時期ということです。早く抜け出して欲しいものですが。
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煩悩まみれに気が付けるか
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人は時として、シンプルにやれば良いことを、複雑に捉えて自分自身を苦しめてしまうことがあります。スポーツなんかでは特によく見られる事象ですが、目的が『点を取る』ことのはずなのに、そこまでのプロセスにこだわってしまうあまり、『キレイに点を取る』もしくは『キレイに攻める』に目的が入れ替わってしまうことがあります。
普段の生活でも、こういったことは起こっています。自分に関係ないニュースなのに怒りを感じたり、自分にはどうしようもないことなのに何とかしようと時間と労力を費やしたり。
それら全ての選択を効率的かつ合理的にできれば良いなと思いつつも、それはそれでコンピューターみたいになってしまうのかもしれません。そうなったら逆に考えものなのかもしれませんが、人は時としてそれが非合理的とは気付かずに、下手したら非合理的と分かっていながら、その道を歩んでしまうことだってあります。『損するのは分かっているけど、やめたくないし、やめられないんだ』という感情は、ギャンブルやお酒やタバコをやっている人なら一度は味わったことがあるんじゃないでしょうか。
これらは仏教では、愚痴や貪欲といった煩悩に挙げられます。愚かさや貪りの心というわけですが、分かってはいてもこれらから離れることがどれだけ難しいことか。『悟りを開く』とは『煩悩を断つ』ということですが、『煩悩を断つ』とは『煩悩の芽すら心の中に湧き起こらない』という事になります。仏のように、怒らないし貪らないし、という人がいるかもしれませんが、その人だってきっと心の中には煩悩の芽が沸き起こっているはずです。
そんな煩悩まみれの我々ですので、浄土真宗では阿弥陀仏の他力にすがり、感謝のお念仏をお称えするわけです。この『自分が煩悩まみれである』ということに気が付くのが最初のステップだと思いますが、これにすらなかなか気付きにくかったりします。
色々考えると、阿弥陀仏の他力に気が付けるということも、とても難しい事なんだなぁと考えさせられます。そういった仏縁にあずかれるように動くのが我々僧侶の役目でもありますので、これからも日々の歩みを止めずにいきたいなぁと思います。
本日もブログをお読みいただきありがとうございます。頑張れ、アカツキジャパン。
南無阿弥陀仏
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