浄土真宗所縁の場所を巡る旅を振り返る①

こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


明日に迫った書道の課題提出に向けて、今日はセコセコと作品作りをしていました。部屋が寒すぎて、暖まるまで待ったりしていたら結構な時間を使ってしまいました。ただその後は集中でき、なんとか明日の提出を迎えられそうです。


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浄土真宗所縁の場所を巡る旅を振り返る①

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さて今日からは、2年前の年末に行った旅の中から『浄土真宗所縁の場所』を振り返っていきます。


テーマは変わっても、注意書きは変わりません。あしからず。


今回のシリーズはあくまで『振り返り』ですので、いま旅に出ているわけではありません。私は東京にいます。また、実際に私が訪れた順番ではなくて、まとめるために関連性から順番を決めています。ご容赦ください。ちなみに写真は、全て私が(多分)撮影したものです。


昨日までは親鸞聖人の足跡に沿った形で書いておりましたが、今回のは順不同です。ちなみに今日は、真宗十派の中でも、寺院数の多い3つ(本願寺派、大谷派、高田派)の本山をご紹介します。


では行きます。



『西本願寺』(京都市下京区)

~浄土真宗本願寺派の本山~

御影堂門

正門(堀川通りを挟んで建てられている)

↑阿弥陀

↑御影堂と渡り廊下

御影堂(帰敬式)


『おにし』と呼ばれる、浄土真宗本願寺派の本山です。現在の七条坊門堀川の地は、天正19年(1591)に豊臣秀吉から与えられました。当時の門主は11代顕如上人で、まだ東西には分かれてはいませんでしたが、翌年の天正20年(1592)11月24日に顕如上人が往生する(亡くなる)と、それがきっかけとなって本願寺が東西に分かれるようになったそうです。


まずは、長男の教如上人がいったん秀吉から朱印状を得て本願寺門主を継職しました。しかし翌文禄2年(1593)閏9月16日に突然秀吉から大坂城に呼び出されて、結局即刻退職を命じられてしまいました。その結果、三男の准如上人が12代門主を継ぎますが、教如上人は内心でそれを承服せず、独自に宗派作りを進めました。慶長3 年(1598)に秀吉が亡くなると、退去した教如上人が徳川家康に接近し、更に家康は関ヶ原の戦いで勝利し天下を手にすると、教如上人の作った宗派を認めて、慶長7 年(1602) 2 月六条堀川に新たに土地を与えました。この時から、本願寺は事実上、東本願寺と西本願寺に分裂することになりました。


現在の御影堂は寛永13 年(1636)、阿弥陀堂は宝暦10 年(1760)に再建されたもので、共に国宝に指定されています。この外に飛雲閣・対面所・白書院・黒書院・唐門・北能舞台等も国宝に指定されているそうです。


真宗十派の中で最大の派であるのが、この本願寺派です。境内から堀川通りを挟んだ場所に正門があるという、少し独特の造りでした。お朝事後の阿弥陀堂に入ると、ちょうど帰敬式(仏弟子になる儀式)が執り行なわれていました。聞くところによると、西本願寺では希望者がいれば毎日行なっているそうです。


伺った時には、2018年9月の台風の影響から、国宝である唐門が修復中であったり、普段入れるエリアが立ち入り禁止になっていたりしました。また改めて、ゆっくりと参詣したいと思います。



『真宗本廟(東本願寺)』(京都市下京区)

~真宗大谷派の本山~

↑正門

↑阿弥陀堂

↑阿弥陀堂と御影堂を繋ぐ渡り廊下

↑御影堂

手水場


由縁は『西本願寺』のところに書きました通り、本願寺が東西に分派することに始まっています。本願寺がこのように東西に分派するきっかけは、本願寺が織田信長と戦った石山合戦の講和の際に、長男の教如上人がそれに承服せず、なおも4ヶ月間大坂本願寺に籠城したことが発端になっているそうです。そのことが原因で、本願寺の中が教如上人派(強硬派)と顕如上人派(和解派)に分かれてしまい、そうした派閥の対立が東西分派へと向わせたようです。ちなみに東本願寺は通称で、正式には真宗本廟(しんしゅうほんびょう)となっている。


現在の御影堂・阿弥陀堂は、どちらも明治28年(1895) に完成されています。


真宗十派の中で2番目に大きな派であるのが大谷派です。お朝事に参詣したところ、丁度年末の煤落としの日ということで、たくさんの門徒さんがいらっしゃいました。


大谷派は、昭和44 年(1969)から始まるお東騒動により、内部分裂を起こし更にいくつかの細かい宗派に分かれていきました。法善寺も元々は大谷派の末寺でしたが、お東騒動により独立した浅草の東本願寺東京別院(現・本山東本願寺)を本山とする東本願寺派に属することとなりました。ということで、少し複雑な気持ちでのお参りとなりました。



『専修寺』(三重県津市)

~真宗高田派の本山~

↑山門

↑如来堂

御影堂(内観)

御影堂(外観)

寺内町を囲む堀

寺内町の風景(左が専修寺)


三重県津市一身田にある真宗高田派の本山です。高田派は、本願寺派、大谷派に次ぐ真宗では3 番目に大きな宗派となります。


この専修寺は、元々は下野国芳賀郡大内庄柳島(栃木県真岡市高田)に創られていましたが、大永6年(1526)に兵火のために炎上したことがきっかけとなり、伊勢国一身田の現在地に本山が移されたそうです。現在では栃木県の専修寺も再興され、そちらは元の本山と意味をこめて『高田本寺』と呼ばれています。主な宝物はこちらの本山所蔵ですが、17年に一度御開帳される『一光三尊仏』の本尊や、真仏・顕智像は高田本寺に所蔵されています。


御影堂(みえいどう)は延宝7 年(1679)、如来堂は寛延元年(1748)に完成され、共に国宝です。国宝だらけでなんとやら。。。


私は夜に着きましたので、専修寺に併設されている宿に一泊してから翌朝のお朝事に参詣しました。ちなみにこの旅で最初の夜を過ごしたのが、この専修寺でした。


翌朝は、まだ日も昇らない内から境内を散策し、山門からお堂まで、とても立派で歴史と荘厳さを感じることが出来ました。浄土真宗の宝物のおよそ8 割は高田派が所蔵していると言われていて、次は宝物を見られるタイミングで訪問したいと思います。


専修寺の辺りは一身田という町で、専修寺を中心とした寺町になっています。お寺の正門とは別で手前に大きな門があり、この町全体が専修寺を中心に成り立っているんだろうな、と思いました。



今日はこの辺で。3つしか紹介していませんが、所縁や私の所感なんかを書いているとボリューム満点になってしまいます。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。


明日も『浄土真宗所縁の場所を巡る旅』編をお届けします。真宗十派の他の本山をご紹介していく予定ですので、お楽しみに。



南無阿弥陀仏

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