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法話することの意味

こんばんは。

法善寺副住職の中山龍之介です。

本日は日中は暖かかったですが、夜は強風で冷えました。ダウンジャケットで本願寺学院に行って、本当に良かったです笑

さて本日は、昨日の『宗教の二面性』から少し派生して、宗教の『受け入れがたい部分』を説く意味について話をしてみようと思います。なかなかマニアックなブログになってきました笑

昨日も書きましたが、『受け入れがたい部分』というのは自分が体験・経験していないことで、目に見えない幽霊や仏様や神様のことです。

浄土真宗は阿弥陀仏が本尊となりますが、この方は現世に実在したわけではなく、お釈迦様が説かれた教えの中に登場する仏様の一人です。阿弥陀仏の仏像をご覧になったことがある方も多いと思いますが、実際には阿弥陀仏はあの仏像のように人間の姿形はしておりません。『尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)』という別名がありますが、阿弥陀仏は光となって私達に降り注いでくださいます。人智を超えた存在、それが阿弥陀仏だったり、他の仏様だったりするわけです。仏像というのは、そういった人智を超えた姿を私達は捉えることができないので、私達にも分かるようにお出ましになった姿、つまりは方便化身ということです。

ここからが本題ですが、このように、阿弥陀仏とは何ぞや、的なことをお話すると、ぽかんとされてしまう事があります。『人智を超えた』とか言われてしまうと尚更です。私だったら、分かるように言ってくれ、と思います、きっと。

こうなってくると、私はこの『受け入れがたい部分』はあまり話さないでおこうかなと思ってしまいます。実際、年回忌の法要などでのお話は、ご縁や諸行無常についての時が多いです。

しかし、やっぱりこの『受け入れがたい部分』も説いていかないといけないな、と昨日のブログを書きながら思いました。それはもちろん、参詣者の方々に伝えるということもありますが、それだけじゃなくて私自身も教えを聞かせていただける、と思ったからです。

先日、とあるお坊さんが『法話しているときに心掛けていることはなんですか?』と聞かれて『自分が話していると思わないこと』とおっしゃっていました。達人の域に達したお答えですが笑、仏教の教えというのは私達自身の中で育まれたものではありません。お釈迦様や親鸞聖人より頂いた教えであって、それを私達が代わりにお話させていただいています。

つまり、私が話ししているのですが、その私自身も聞き役だということです。同じことばかり話ししていては了見も広がらず、自分のためになりません。そういう意味でも、もっと色んなことを話ししていかないといけないな、と思いました。

そのためにはたくさん勉強しなくてはいけません。もっといろんな人の法話を聞くことも必要です。機会は転がっているので、これからは積極的に拾いに行こうと思います!


南無阿弥陀仏

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