本願寺学院2年目 後期レポート公開①

こんばんは。

法善寺副住職の中山龍之介です。


少し時間が経ちましたが、本願寺学院の後期課題であるレポートを公開させていただきます。本日は月曜日『真宗史』のレポートで、テーマは「蓮如上人の本願寺改革と大教団への道」です。


それではご覧ください。

蓮如上人の本願寺改革と大教団への道

本科二年 中山龍之介


東西本願寺を本山とする浄土真宗の宗派は、現在の日本で最大勢力である。しかし浄土真宗の開祖とされる親鸞聖人がご在世時は、まだ今日のような大教団ではなく、転機は本願寺八代目である蓮如上人である。ではその蓮如上人は、どのように本願寺を改革し、そして今日まで繋がるような大教団にしていったのか、それをまとめる。


蓮如上人は、応永二十二年(1415)に誕生した。父は本願寺七代目の存如上人であったが、母はその召使いであると言われており、周りからは冷たい目で見られながら幼少期を過ごしたようである。ちなみに当時の本願寺は小さな坊舎を構えるだけで、まだ天台宗の青蓮院の末寺の一つという扱いであった。


蓮如上人は十五歳の頃、親鸞聖人の法流を興隆することを思い定め、十七歳で出家し、父である存如上人の指導なども受けながら、独学に近い形で浄土真宗を学んでいかれた。そんな中、十九歳の時に存如上人と正妻である如円尼の間に初の男子である応玄が生まれた。これが、後の後継者争いに絡んでくることとなる。


蓮如上人の青年期、京都では土一揆が盛んに興り、その影響もあってか、蓮如上人は乱世の民衆が救われる道を見定めていった。そして三十八歳の頃に金森の道西に見出され、金森や堅田、そして近江国全体へ聞法の輪を広げていかれた。


長禄元年(1457)、蓮如上人が四十三歳の時に父である存如上人が亡くなり、後継者争いが起こった。正妻である如円尼は、本願寺を青蓮院の末寺のまま天台宗の威儀を重んじる保守路線を望んでいたが、蓮如上人は先代の意向を受け、民衆に働きかける改革路線を望んでいた。そういった背景の中、本願寺の後継者は、叔父の如乗の助けもあり、蓮如上人が選ばれた。ここから蓮如上人は様々な改革を推し進めていった。


蓮如上人はまず、十字名号(帰命尽十方無碍光如来)を本尊に制定した。これは、従来の名号(南無阿弥陀仏)が音訳であったのに対し意訳となり、より民衆に理解される形で本尊を制定したと考えられる。


次に親鸞聖人の御影を制定し、親鸞聖人こそ宗祖である、という意識を鮮明にしていった。他にも、平座で門徒に接する、派手な衣の色を着用しないなど、門徒への気配りも欠かさなかった。そこには『御同朋御同行』という、念仏を称えるものは全て平等であるという意識が顕れていた。


また、四十六歳の時、金森の道西の所望により、『正信偈大意』を著された。これが御文の基となり、翌年には『筆初めの御文』と呼ばれる最初の御文を著された。


蓮如上人の改革により本願寺は大きな勢力となっていったが、これにより比叡山の怒りを買い、牒状が下付された。僧兵による本願寺襲撃などもあり、蓮如上人は本願寺を追われ金森などを転々とすることになる。最終的には青蓮院が仲介し和解となったが、これによって蓮如上人は比叡山から離れた場所で布教の地を探し始める。三河、関東、吉野などを回ったとされるが、結局は如乗などの縁があった北陸の地へ向かった。そして景勝の地である吉崎を布教の地として選ばれた。


吉崎に到着後、蓮如上人は親戚寺院や有力寺院を回った。その当時北陸では、門徒指導者である大坊主を頂点とする師弟関係が強く残っていたが、蓮如上人は、大坊主であっても如来の御代官であると説き、御同朋御同行に基づいた意識改革を行っていった。また『猟漁の御文』、『当山多屋内方の御文』、『御さらえの御文』などを著し、一般民衆や女人の救済を懇々と説いていった。すると吉崎には、日に日に道俗男女が大挙し、これが本願寺大教団の始まりと言われている。


他にも蓮如上人は様々な改革を進めていった。まずは六字名号の大量下付を行った。木像より絵像、絵像より名号と言われ、民衆が日常茶飯事に本尊を拝めるようにという願いがそこにはあった。またそれまでは師(善知識)の許し無しでは閲覧できなかった聖教を、正信偈・三帖和讃の出版という形で一般民衆に公開した。更には『講』という門徒集団を成立させ、それらの集まりで正信偈を読んだりお斎を食べたりすることで門徒の団結力を高めていった。御文による伝道を決意したのもこの時で、それまで以上に力を入れられ晩年まで続けられた。御文を下付された者がそれを他の門徒に読み聞かせることで、布教の輪をどんどんと広げていった。


しかし、吉崎の門徒衆が大教団となりすぎたことで、蓮如上人自身が一向一揆に巻き込まれていくことになる。応仁の乱もあり、暴走する門徒を抑えるために『十一箇条の掟』を発表されたが、それでも抑えることは出来ず、蓮如上人は吉崎の地を離れることを決意する。約四年間の短い滞在であった。


吉崎を離れた後は、出口坊舎に居を構えて摂河泉や吉野への布教を行った。また、この地でかの有名な『白骨の御文』を著された。しかし、これまでの経験から、『外に王法・内に仏法』と説き、今までの攻めの伝道から、守りの姿勢へと変化が見られる。


応仁の乱が終わると、蓮如上人は山科に本願寺を建立した。この山科本願寺は日本で最初の寺内町と言われている。この時代に蓮如上人は、『御俗姓御文』を著され、『報恩講』を成立させ、根本の御影を三井寺から戻している。


七十五歳で本願寺留守職を五男実如上人に譲ったものの、御文の制作に改めて力を入れるなど、最晩年にかけて教化に情熱を燃やしていた。御文では、特に『機法一体』や『願行具足の南無阿弥陀仏』を強く説かれ、こうした信心の深まりが後に妙好人と呼ばれる篤信者を生み出した。


最晩年になっても、教化の拠点として大坂御坊を建立されるなど、精力的に動かれていたが、ついには明応八年(1499)、八十五歳で往生を遂げられた。


蓮如上人の記録を読み解くと、多くの人を巻き込む、蓮如上人のカリスマ性が伝わってくる。多くの人を浄土真宗に教化したが、その反面で敵も多く、ご自身が予期しなかった方向に巻き込まれたことも多々あったはずである。それでも蓮如上人は『御同朋御同行』の志を最後まで曲げず、結果として、今日まで繋がる本願寺の大教団の基礎を築かれた。開祖である親鸞聖人に対し、蓮如上人は中興の祖と呼ばれるが、覚如上人同様にこの方々がいらっしゃらなければ浄土真宗の教えが今日まで紡がれていないかもしれないと考えると、功績は多大なものである。

以上です!


かなり長くなりましたので、ここまでたどり着いた方には、より一層の感謝を申し伝えます。本当にありがとうございます。


明日は『真宗学』のレポートで、テーマは「正信偈について」です。お楽しみに。



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