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専念する怖さ

こんにちは。

法善寺副住職の中山龍之介です。


先日、とあるラジオを聞いていて、そこで思ったことを今日は書かせていただこうと思います。たまには仏教のことも書かないと。笑


まず、とあるラジオというのは『Voicy(ボイシー)』というアプリのことで、スマホで聞くラジオみたいなものです。そのラジオの中に、お笑いコンビ・キングコングの西野亮廣さんのチャンネルがありました。ほぼ毎日更新されていて、10分くらいの長さのブログのようなチャンネルです。そのチャンネルのある日の回にて、西野さんが『経営からは離れて、制作活動に専念する』とおっしゃっていました。


西野さんはご自身で会社を持っていたそうなのですが、その経営活動からは離れて、本来の作り手の仕事に専念する、ということです。会社を畳むわけではなく、友人に経営権を譲り、自分はそこから給料をもらう形にしたそうです。そこで更に西野さんは『これからはモノづくりをしないと自分の価値は無い』とおっしゃっていました。


これを聞いて、西野さんがすごい・すごくないという話ではなく、『専念する』というのはとても怖いことだと思いました。というのも、その『専念したこと』で結果が出なかった場合、そこに費やした時間や労力が無駄になってしまうからです。他にも手掛けていれば保険や言い訳にもなりますが、専念してしまった以上それも許されません。


そして同時に思ったことは、『専念』という言葉は実はとても浄土真宗的だな、ということです。


浄土真宗では『専修念仏(せんじゅねんぶつ)』という言葉があり、これは『専(もっぱ)ら、念仏行だけを修める』という意味です。つまり、他の修行には捉われることなく、阿弥陀仏だけを信じて念仏をする、そうすれば浄土に往生することが出来る、ということです。(『専修念仏』が略されて『専念』になったんじゃないかと思い少し調べましたが、それらしいエビデンスは見つけられませんでした笑)


専ら、ですから他の修行や仏様を保険とはしません。阿弥陀仏だけに一向に念仏をするわけです。つまりそれだけ、御念仏というのは誰でも出来る行であり、阿弥陀仏は誰でも救ってくださる仏様ということです。


浄土真宗の開祖である親鸞聖人の有名なお言葉として、『 たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候 (師である本法然上人がお説きになった阿弥陀仏の救いが仮に嘘で、念仏して浄土往生出来ずに地獄に落ちたとしても、一切の後悔などあろうはずがありません)』というものがあります。これは法然上人を疑って言ったのではなく、親鸞聖人がご自身のことを『地獄に落ちるような煩悩を具えた凡夫である』と考えていたから出てきたお言葉です。


浄土真宗では、私たち人間は誰でも凡夫(ぼんぶ)だと考えます。弱く卑しい人間で、この現世において肉体と繋がれている限り煩悩を断つことは出来ない、ましてや自力で仏になる厳しい修行など到底達成しようがない、ということです。


そんな我々でも救ってくださる阿弥陀仏、称えることが出来る念仏、これだけに専念せよ、と親鸞聖人はおっしゃいました。こんな我々が他に救われる道を知らないわけですから、我々もそれを信じて専念するわけです。親鸞聖人の言葉を借りれば、『たとい親鸞聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候』ということですね。


専念するというのは怖いことですが、心を定められれば迷いがなくなります。その心を定めるためには、仏教のお勉強、仏様への報恩感謝、そしてお念仏を日々忘れずに続けていかなければいけません。厳しい修行の無い浄土真宗ですが、これらを日々心に刻み続けることが一番の修行なのかもしれません。



改めまして、、、


南無阿弥陀仏

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