宗教が人に与えるもの
こんばんは。
法善寺副住職の中山龍之介です。
本日は金曜日、ということで、今日で本願寺学院の3学期1週目が終わりました。ちなみに今週は、書道教室にも3回行きました(通常回+昨年末欠席の振替+展示会用の練習会)。終わってみれば、何ともインプットの多い一週間でした。あー、忙しかった笑
さてさて今日は、『宗教が人に与えるもの』について書こうと思います。
仏教だけでなく、世の中にはたくさんの宗教があります。伝統的なもの、新しいもの、いかがわしいもの、様々です。笑 その数だけ教えもある訳ですがそんな中でも共通して、これがなければ宗教とは呼べない、と考えるものがあります。
それは『第三者の視点を与えること』です。
仏教なら仏様、キリスト教ならゴッド、イスラム教ならアッラー、こういった方々から見た我々人間という生き物がどう描かれているか、そして彼らから見たときに我々は何者なのか、これを教えてくれないのは宗教じゃないと思います。
仏教の浄土真宗で言えば、まず入口は『無知の自覚』になると思います。私達は普段、何も気にせず暮らしていると自分が良い人なのか、はたまた悪い人なのか、あまり分かりません。しかし仏教を勉強すると、自分がいかに悪い人間かが見えてきます。煩悩にまみれ、悪業を作り、その煩悩を絶つための修行さえも耐えきれない。そんなどうしようもない生き物が私なんだ。これが浄土真宗のスタート地点です。
それでは、そんな私はどうしたら救われるのか、と考えます。
そこで浄土真宗では阿弥陀仏の救いの教えを頂くわけです。
つまひは、宗教観が無い人は、第三者の目線を持たない人になります。利己的な考えに終始してしまい、他人を傷付けることを気にしません。よく、日本人は無宗教だと言われますが、私達日本人は意外と、こういった第三者の視点は持っていると思います。悪いことをしたらバチが当たると考えたり、お墓参りをして先祖の方々に声をかけてみたり、初詣で神様にお願いをしてみたり、こういった事を日常的にしています。
仏教だけでなく、キリスト教やイスラム教も、このような第三者の視点を授けてくれます。昨年の9月に行った『宗教を知ろう』のパネルディスカッションで、キリスト教の広田牧師が『私は、人間ではないもっと大きな存在を感じないと窮屈になる』と仰っていました。こういう感覚こそ、宗教者が身に着けるべきものだな、と感銘を受けたのを覚えています。
現状の日本では、宗教は敬遠されがちなものだと思います。そういった壁を取り除けるように、もっともっと宗教者として伝えていきたいと思います。
ということで、そろそろ今年の『宗教を知ろう』に向けて動き出さないとなーと思った1日でございました!
南無阿弥陀仏
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