事件の背景を考えてみて思うこと
7/12のブログです。
こんばんは。
法善寺住職の中山龍之介です。
今日は火曜日なのでバスケの日。ここ最近は週一のジム、週一のバスケがコンスタントにできるようになってきていて、だんだんと体の動きと頭の中のイメージが合致してきた印象です。それでもまだまだ体力はないし、あと一歩を踏み出すのが出来なかったりしますが、コロナで全然バスケできていなかった頃に比べると全然マシです。
引き続き運動を続けて、健康的な生活を目指します。ついでに痩せたい。
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事件の背景を考えてみて思うこと
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安倍さんの事件から数日が経ち、容疑者の言っていた『特定の宗教団体』である世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の方が会見を開かれました。詳細については避けますが(ご興味あれば見てみてください)、宗教がこういう形で注目を浴びるのはとても悲しいことです。
今回の事件に際し、容疑者の行為は断じて許されるものではありませんし、肯定すべきだとも全く思いません。ただ、就職氷河期世代で、自身の生活が楽ではなく、そんな中で母親が怪しい宗教にハマり破産してしまった。そんな中で誰かに憎しみを持てずにいられるかというと、私には自信がありません。語弊なくご理解いただきたいのは、今回の事件と動機を肯定するという意味ではなく、憎しみを外に向けてしまう気持ちは分かる、という意味です。
世間一般的に使われている言葉として、因果応報というものがあります。悪いことをすればバチが当たるし、良いことをすれば幸運なことが起こる、みたいな意味で使われていますが、この世界は決してそんなことはありません。悪いことをしてものうのうと生きている人もいれば、良い人なのに憂き目にあっている人もいます。
これはなぜかというと、『因』と『果』の間には『縁』があるからだ、と祖父がよく言っていました。『縁』とは縁起、つまりは(ざっくり言えば)我々が外からいただく影響のことですが、これが『因』に働くことによって、『果』が変わってくる、というわけです。因も縁も一つではなく、複雑に絡み合う中で果が生まれるわけですが、今回の容疑者と同じ因と縁を自分が味わったらどうなんだろうか、と考えるとなんともやるせ無い気持ちになります。
ただ、そうは言っても、その縁をどう受け止めるかもその人次第です。同じことが起こっても、怒る人もいれば笑ってる人もいます。縁の受け止め方というのも、それまで頂いてきた縁によって変わってくる、という縁起の堂々巡りになってしまいますが、『あいつ、有り得ねえだろ』と思う前に、この話を思い出していただけると幸いです。物事が違った目線で見えてくるのではないでしょうか。
今日もブログをお読みいただきありがとうございました。二度とこんな悲しい事件が起きませんように。
南無阿弥陀仏
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