ちゃんと迷えているか?

2/27のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


今日は娘の初節句のお祝いをしました。お寺に飾ってあるお雛様は姉が生まれた時にお寺にやってきたものですが、それを拝借させて頂いて写真をパシャリ。子供たちから見ればおじいちゃんおばあちゃんも勢ぞろいでお祝いできました。


娘は3月生まれなので、ほぼほぼ1歳で初節句となります。来月には誕生日も控えていますし、色々と祝い事が続きます。コロナで気持ちが塞ぎ込んでしまいますが、子供たちによって盛り立ててもらっている気がします。コロナに負けず、お祝い事はきちんとしていきたいですね。


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ちゃんと迷っているか?

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最近読んだ本で、宗教理解には四段階あるという話を目にしました。四つの段階を踏むことで、宗教を真に理解することができる、ということみたいです。


まず第一段階が『迷う』です。日々の生活の中で、悩んだり苦しんだりすることを指してるみたいです。仏教的に言えば、どうやったらこの苦しみから逃れられるんだともがくことでしょうか。


第二段階が『気付く』です。目の前にある苦しみからは逃れられないんだ、付き合って生きていくしかないんだ、ということでしょうか。浄土真宗的に言えば、凡夫の自覚に当たると思います。どうしようもない心理に気付くと、次はどうなるのでしょうか。


そんな第三段階が『建てる』です。信仰心を持つと言っても良いのかもしれません。浄土真宗的に言えば、信心をいただく、ということになりそうですね。


最後の第四段階は『還る』です。仏教には還相回向という言葉がありますが、これは現世の迷える衆生を救うために、極楽浄土から帰ってくることを指しています。ただ、もっと広い意味でこの『還る』を捉えれば、自分自身で信心を留めず、感謝の気持ちを持ち、周りの方々にも奉仕することじゃないでしょうか。


宗教に触れている方なら、何となくこの四段階については理解できると思います。これだけ順序立てて理解をされていなくても、しっくりは来るんじゃないでしょうか。


私もそんな感じでしたが、この本を読んでいて改めて『自分ってちゃんと迷えているのかな?』と思いました。『ちゃんと迷う』というのは変な表現かもしれませんが、いくら阿弥陀様が救ってくださるからと言って、日々の苦しみから目を逸らして、なまんだぶなまんだぶとだけ言っていてはいけないんじゃないか、ということです。日々の生活で苦しんでこそ、お檀家さんの立場に立ってお話ができたり、寄り添うことができるんじゃないかと思っています。


先日の『宗教を知ろう』に登壇してくださった、イスラム教のリームさんが仰っていましたが、イスラム教では日々の営みを全て試練として捉えるそうです。苦しみから逃げず、苦しみながら人生を歩んでいくことが信徒には求められるそうです。


この姿勢こそ、僧侶に求められているんじゃないかと思います。特に浄土真宗においては、僧侶は『非僧非俗』であると言われます。お坊さんでもなく、俗人でもない、という意味ですが、民衆のために説かれた教えですので、民衆の方々と一緒に苦しみながら人生を歩んでいくことが必要なんじゃないでしょうか。


別に、物事を卑屈に捉えて、何でも苦しみとして受け取れ、と言っているわけではありませんが、今日が楽しければ良い、人生楽しんでなんぼ、みたいな発想にはなりたくないなーと思ったりします。


今日もブログをお読みいただきありがとうございます。人として迷いながら、人生歩みたいものです。



南無阿弥陀仏

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