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お寺は結局人で決まる

11/10のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


今日は昨日までに比べ、グッと寒く感じた一日でした。長時間お座敷にこもる用事があった際には、足元が寒く感じられ、暖房入れようかな?と思ったほどです。結局入れませんでしたが。


こうなってくると風邪が怖いですし、世間ではインフルエンザも流行ってるみたいです。健康第一ということで、気を付けて生活していきます。皆様もご自愛ください。


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お寺は結局人で決まる

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ブランドというものを考えたとき、シャネルやナイキと聞いて人の顔を思い描く人は少ないはずです。同じようにお寺をブランドとして捉えると、属人的にしたくないなぁと思いつつ、やっぱりお寺は属人的にやっていくのが正解なんだろうなぁと感じているここ最近です。


とは言ってもお寺によってはブランド化しているところもあります。ただ法善寺のような小さなお寺は、『清水寺』とか『東大寺』みたいになれるはずもなく、そして目指すべきでもなく、逆に差別化を図るのであれば属人化は歓迎すべきなのかもしれません。


ここで言う属人的というのは、同じ業務をするにしても、勤行をする僧侶、お彼岸のときにお話する人、お寺の電話に出る人、これらが私や妻や母や祖母である必要がある、ということです。他の人ではダメで、我々の立場なり顔なり人柄なりを知っていただいたうえで成り立つ関係である、ということです。


葬儀や年忌法要の際に書く法名や棺書だって、私より字がきれいな人なんて沢山いますが、私は『住職自らが書くこと』に大きな意義があると思って書いています。そして、そこに別にふんぞり返っているつもりもないので、出来るだけ上手くなりたいなと思って書道に通っています。


声明の勉強をするのや、法話の勉強をするのも同じ理由です。同じように、お彼岸やお盆のときに接客するのが誰でも良いわけがなく、妻や母や祖母といった寺族自らがやることに大きな意義があると信じています。


そう考えると、お寺はどこまで行っても属人的だなぁと感じます。『法善寺ブランド』を築こうと思っていましたが、属人化に真っ向勝負せずには辿り着けなさそうです。勝負したとて辿り着けるかは分かりませんが。


また、お寺をブランドにする場合、どうしても長い年月が必要になってきます。恐らく一人の人生よりも長い年月がいるわけで、良い意味でご先祖様にあやかる必要がありそうです。やはりそこには感謝の気持ちを抱き続けなければいけないですね。


今日もブログをお読みいただきありがとうございます。自分の人生で完結を見ないことに挑戦できるなんて、なんて素晴らしいことなのかしら。



南無阿弥陀仏

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