冥土/冥福とは
こんにちは。 法善寺副住職の中山龍之介です。 昨日と一昨日は暖かかったですが、今日は一転、寒い日が戻ってきました。気温もさることながら、強風のおかげで一層寒く感じます。 今年はインフルエンザの脅威だけでなく、コロナウィルスによる新型肺炎も拡散されています。昨日コンビニにマスクを買いに行っても、マスクだけがゴッソリと売り切れていました。一人でもご無事であること、そして早くこの脅威が過ぎ去ることを願います。 さて、本日は『冥土』と『冥福』について書こうと思います。 日本では有名人が亡くなった際に、テレビなどで『ご冥福をお祈りします』という言葉を見聞きします。最近ではSNSの普及から、一般の方もよくこの言葉を用いられます。 ちなみに海外では『R.I.P. (Rest in Peace 安らかにお眠りください)』という言葉が用いられます。『ご冥福~~』と違い、難しい言葉を使っていなくて、シンプルで分かりやすい表現ですね。 では実際、どれほどの方が『冥福』の意味を分かって使っているのでしょうか? まず最初に言っておくと、浄土真宗では『ご冥福をお祈りします』


本山と末寺の関係性
こんにちは。 法善寺副住職の中山龍之介です。 昨日、ほぼ書き終わっていたブログが飛んでしまいましたので、本日はそのやり直し記事です。「昨日書いていたものよりも良い記事にして書き直してやる!」という気持ちで、本日は頑張らせていただきます。(これをMamba Mentalityと言います) タイトル通り、お寺の本山と末寺について書きます! では、、、 『本山(ほんざん)』と聞いても、一般の方は『?』となる方もいらっしゃると思います。仏教界で『本山』とは、『宗派のトップのお寺』という意味があります。一言に仏教と言っても、日本にはたくさんの宗派があります。その宗派一つ一つに本山があるわけです。 そしてその宗派に属する他のお寺を『末寺(まつじ・まつでら)』と呼びます。各宗派、ピラミッドのような組織図ですので本山よりも多数の末寺が存在しています。 私がいる法善寺は『浄土真宗東本願寺派』に属する末寺です。本山は浅草にある、東本願寺です。よく、京都の東本願寺と勘違いされますが、あちらは『浄土真宗大谷派』の本山です。また、京都の東本願寺は正式名称ではなく、正しくは

ブログ飛ぶ 2回目(いい加減、おれ学べ)
こんばんは。 法善寺副住職の中山龍之介です。 すみません またしても、ブログの記事が飛んでしまいました。。。 スマホで書いているのですが、保存せずにブラウザで調べものをしてしまいました。。。戻ったときには全てが『無』に帰しておりました。。。今度からは、下書き保存して、気を抜かないようにします。 ということで、今日書こうと思っていた(というかほとんど書き終わっていた笑)、『お寺の本山と末寺について』というタイトルのブログは明日に回します。パソコンで書きます笑 今日は暖かい一日でした。雨を吸った庭の木に日光が当たり、湯気が立っていました。幻想的でした。 少し分かりにくいかもですが、その写真が今日の一枚ですので、これで勘弁してください笑 南無阿弥陀仏
遠回しに、法善寺の宣伝します
こんばんは。 法善寺副住職の中山龍之介です。 昨日は、大変エモーショナルな日記となってしまい、失礼いたしました。まだ全然立ち直ってはいませんが、マンバメンタリティで頑張っていこうと思います。 さて本日は、お寺生まれではない、とある方と話をしていて感じたことを書こうと思います。あまり詳しく書くと個人を特定されるかもしれませんので、ざっくりと。 その方は寺族の方ではなく、一般社会の中で過ごしてこられた方です。50代の方なのですが、話をしていて『あぁ、一般世間はお寺のことをこう見ているんだな』と思いましたので、その部分にフォーカスを当てて書き進めます。 その方のご友人など、年齢のこともあり親世代の葬式や墓問題で困っている方が多いとのことでした。話を聞いていると、『お寺は怖い』という印象をお持ちの方が多いそうです。理由は、お金の話をすぐされるから、だそうです。葬式のお布施いくら、お墓はいくら、とお金の話ばかりで嫌になる、とのことです。 お寺といえども、お坊さんといえども、霞を食べて生きているわけではありません。お金はとても大事というのは一般世間と変わりな


コービーありがとう。
こんばんは。 法善寺副住職の中山龍之介です。 今朝起きてFacebookを開くと、あるニュースが飛び込んできました。 『コービー・ブライアントがヘリコプターで事故死』 一瞬で目が覚め、あまりのことに信じられず、正直今でも受け止めきれていません。 私と仲の良い方はご存知かと思いますが、私はコービーが一番好きな選手です。 私がNBAを見始めたのは2001年頃。バスケ部の友達に教えてもらい、雑誌やビデオを見ていく内にどんどんのめり込んでいきました。 そんな2001年頃、NBAで最も強かったチームが、コービーのいるレイカーズでした。その頃はシャキール・オニール(シャック)という選手が中心で、コービーはまだ第2の男でしたが、若さと身体能力、そして自信に満ちたプレーで、時にはシャックをも凌駕するプレーを見せていました。 そしてそんなNBAを見始めの頃、私が一番好きな選手はアイバーソンでした。180cmほどの小さな体で大きな相手に立ち向かっていく姿、小さかった当時の自分を投影してとても憧れていました。そんなアイバーソン率いるシクサーズに立ち塞がるのがレイカーズ


人生初・狂言鑑賞
こんばんは。 法善寺副住職の中山龍之介です。 本日は日曜日でした。申し訳ないのですが、本日の自坊で予定されていた年回忌の法要は住職に任せて、私は人生初の狂言を見に行ってきました。 大学留学時代の知人(日本人)が、狂言師の方と結婚されました。あまり会う機会はなく、Facebookで知ったぐらいの感じだったのですが、その子が昨年の『宗教を知ろう』に来てくれまして、久々に話をしました。狂言のことを聞いて、恥ずかしながら一度も見に行ったことがなかったので、公演があったら教えてほしいと伝えていました。すると昨年末に連絡をもらいまして、本日の『三宅狂言会』という公演に行く運びとなりました。 ちなみに、久々にあったときに、私が『狂言師のところに嫁ぐってすごいね。大変そうだね』と言ったら、『それは龍之介くんの奥さんも言われてると思うよ』と言われて閉口したのを覚えています笑 すみません、前置きが長くなりました笑 狂言、歌舞伎、能の違いもよくわからない私ですが、本日の狂言には驚かされました。舞台がとてもシンプルで、セットなどはほとんどありません。雅楽も入らず(入る演
今後の行事計画を少し暴露
こんばんは。 法善寺副住職の中山龍之介です。 本日は土曜日、年回忌の法要だけでなく、葬儀も重なっておりましたので住職と分担してお勤めをさせていただきました。 1月に入り、12月よりも寒い日が続いている気がします。体調崩されないよう、みなさんお気を付けください。 お前はどうなんだと言われそうですが、年に2回、季節の変わり目に風邪を引く私は、今冬はすでに風邪を引いたのでもう大丈夫と勝手に思っております笑 さてさて、1月もそろそろ終わります。すぐに2月に入り、ボヤボヤしていたら3月になりお彼岸があっという間にやってきます。そんな、間もなくやってくる春のお彼岸に向けて、また新しいことを計画中です!今までやったことのない試みで、まだ発表できないのですが、形が定まりましたらご報告させていただきます!面白いこと間違いないので、早く言いたい!笑 それとは別に、どこかのタイミングで『いまさら聞けない仏事のマナー講座(仮)』を開催しようと考えています! 香典袋の書き方、お数珠の持ち方、焼香の仕方、葬儀の意味、などの仏事におけるマナーを中心にお話しようと考えています。


書道の昇級
こんばんは。 法善寺副住職の中山龍之介です。 今日は金曜日でした。一般企業で働いていたときは『やったー、明日から休みだー!』となっていましたが、お寺だとむしろ土日の方が本番といった感じです。明日もお寺では法事が入ってはおりますが、久々に妻と二人で家で晩酌をした、そんな金曜日の夜でございました笑 ということで、少し酔っ払いながら書いております。もし誤字脱字などございましても、お手柔らかにお願いいたします笑 さてさて、本日も書道に行ってきまして、1月分の課題提出をしてきました。言い訳にはなりませんがバタバタとしておりましたので、あまり書道に費やす時間が無く、少し投げやりな形で提出してしまいました。時間のマネジメントもそうですが、書道しやすい環境づくりも、いい加減どうにかしないといけないな、と考えております。せっかく習っているので、120%活かせるようにしていきたいです。 ただただ、おかげさまで書道のクラスが少しずつ上がってきました。私が通っているところでは、段位ではなく、一番下が『人』、その次が『地』、その次が『天』、、、というふうなクラス分けになっ
『制限』を楽しむ
こんばんは。 法善寺副住職の中山龍之介です。 本日は書道の日でした。といっても通常の授業ではなく、3月の書作展に向けた練習会です。(通常の授業は明日にずらしました) 段々と形になってきて、お手本に似た感じにはなってきました。しかしそれでも、先生が一目見ると『まだ筆の圧力が足りない』とか『空間を意識しないとダメ』とか、様々なご指摘をいただきます。1つ壁を超えたと思ったら、また新たな壁が出てきて、そしてその壁は超えるたびに高くなっていってる気がします笑 泣いても笑ってもあと1ヶ月ほどで提出ですので、悔いの無いように頑張ります。 さてさて、 こうやって書道を練習していると、もちろんまだ入口に立っているだけですが、先人達が書道に情熱を燃やしたのが分かる気がします。『筆』と『墨』と『紙』しか使わない世界、絵画のようなカラフルな画材はほとんど使いません。そんな限られた手数でどのように表現するのか、限られているからこそ深めていくしかなく、そうすることによって無限の可能性を秘めているんだと思います。 書道でもそうですが、何をやるにも『制限』は意外と必要なものです
大溪洗耳先生の言葉
こんばんは。 法善寺副住職の中山龍之介です。 今日はとても寒い一日でした。時間によっては少しだけ雨も降ったりと、ついについに、本格的な冬を感じさせる一日だった気がします笑 さて、今日のブログではタイトルの通り、大溪洗耳(おおたにせんじ)先生の言葉を載せさせていただきます。この方は、私が通っている日本書道芸術院の創設者で、その世界では有名な書家です。もうお亡くなりになっているのですが、大溪先生の言葉が教室に貼られておりましたので、それをブログに転用させていただきます。人としての成長がいかに大切かが説かれています。 許可などは取っていませんが笑、とても感銘を受けましたので皆さんにも是非読んでいただきたいです。特に、今の自分自身に行き詰まりを感じている方には、とても刺さる文章だと思います。 ちなみに、私からは解説は致しません。読んだ方が、それぞれ思い思いに受け取られるのが良いと思います。 書についての言葉 大溪洗耳 書はうまいということを目指すのか。 きれいにうまいということだけを取れば、賞状書きや筆耕を職業としている人の方が餘程きれいでうまいのです。