諸法無我

こんばんは。

法善寺副住職の中山龍之介です。

最近、書道の『雁塔聖教序』の臨書をコソコソと進めています。墨を磨って半紙に4文字ずつ書いていっています。全部で800文字くらいあるそうですが、今日時点で終わったのは100文字くらい、12~3%の達成率と言ったところでしょうか。

臨書ですので一文字一文字きちんと似せて書かなければいけないのはもちろん、半紙の中でのバランスも気を付けたいところです。段々と作業の様に書き進めている自分がいますが、『一字入魂』の気持ちでやらないと意味が無いなーと思っています。

『全臨持って来ていただければチェックしますよ』と仰って下さった先生の期待に応えるため、驚かせるために引き続き頑張っていこうと思います。

 

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新社会人時代のアパート

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さて、今日は出張の法事が2件入っていました。1件目が埼玉県、2件目が東京23区です。

1件目が無事に終わり、2件目に行く前にお寺に戻るか直接行くかを悩みました。ただ、帰り道に近いところに2件目のお宅がありましたので、お寺には戻らずお昼ご飯を食べたりして過ごすことに。なぜかどうしてもマクドナルドが食べたくなったのでドライブスルーで買って美味しく頂きました。

そんなことをしながら2件目のお宅に向かっていると、『笹目橋』と書かれた標識が目に入ってきました。私は社会人になりたての頃、光が丘に住んでいて、近くに『笹目通り』という通りがあったのを思い出し、近いんなら当時住んでいたアパートを見に行ってみようと思い、ナビで調べて向かいました。

無事に笹目通りに乗り、そこから川越街道との交差点で右折、光が丘の方に進みました。その道は当時通っていたボクシングジムからの帰り道で、車の中で何度も『うわー懐かしいなー』と独り言をつぶやいていました。

新しくできているお店、無くなったお店、今はファミマになってしまったampmなんかを見ながら、時の流れを感じました。

思い出に浸りながら車を走らせていると、当時住んでいたアパートに辿り着き、まだそこに建っているのを見て、なぜか少し安心しました。もうそのアパートを引っ越してから8年くらい経つから何も言う権利は無いのですが、自分の足跡が残っているみたいで嬉しくなってしまいます。車から降りて、部屋にピンポンして、今住んでいる人と握手をしたい気持ちを抑えながら、車で立ち去りました(我ながらキモイ発想)。なんだか、少し感傷に浸る、良い時間となりました。

 

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諸法無我なり

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当時を振り返ると、まだ社会人1~2年目とかで、右も左も分かっていませんでした。給料をもらっている意味すら理解していなくて、全然ダメだったなーという記憶です。

当時はもちろん独身で、今考えれば、自分のためだけに時間を使うことが出来た貴重な時期でした。今は結婚もして子供もいて幸せだと自負していますが、当時のような何も背負っていない時をたまに懐かしむのも事実です。ただ、逆に当時の自分が今の自分を見たら羨んでいるはずなので、隣の芝が青く見えているだけなんでしょうが。

仮にですが、まだ私が独身で、最初の会社を辞めることなく、あそこに住み続けていたら、どういう性格になっていたのでしょうか。完全なる妄想ですが、おそらく今みたいに前向きな性格にはなっていなかったでしょうし、少なくとも毎日ブログを書いているなんてことは無さそうです。

そう思うと、会社を辞めて、引っ越して、祖父が亡くなって、結婚して、お寺に入って、子供が出来て、という様々なご縁によって自分の性格が作り出されているんだなーと改めて実感します。仏教ではこれを『諸法無我』と言ったりしますが、絶対的な自我というものはなく、自我だと思っているものは縁起によって作り出されているんだよ、ということです。

そういう意味では、今の自分が嫌だと思う人は環境を変えるのも一つの手です。頂くご縁が変われば、自分自身がどんどん変わっていくはずですので。

逆に、『自分の流儀じゃないからこれはやらない』というのも勿体ない気がします(私自身もよくしてしまいますが)。新しいご縁を頂いて、性格が変わったとしても所詮自分は自分です。心が体から離れていくことはありません。

ご縁による自分自身の変化を楽しむ、というのも人生の醍醐味なんじゃないかなーと思い始めた32歳の夏でした。

 

 

南無阿弥陀仏

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